2005年10月23日

【武】上野の森で 3

上野の森で朝っぱらから夜まで上野恩賜公園の中で練習。

学園祭も近いので学校が使えない休日はどこかですることになるのだけれど、夕方から個人的に「渋さ」のLiveが公園内の水上音楽堂で有るので、ここの森の中にした。

武術はバカじゃ出来ないようになってるので、まぁ森の中でリラックス気分でやる方が良い面もある。「根性だ」「気合いだ」と言ってみたところで、技術面は進まないし、かえって逆効果だ。考えながら練習するものだと思うよ、古武術は。

まぁ武器を使ったりすれば危険を伴うので緊張感が必要な部分も否定はしないけど、目を三角にして強くなるなら簡単だ。

今日は天気も良かったし木漏れ日の木立の中で教えてるこっちも気持ちよかった。

公園内の塚を掃除してるジィサマが話しかけてきて、元軍人で空手のみならず拳闘(古いボクシング)をやってたとかで愉快だったし勉強にもなった。

Jetアッパーで金玉狙ってくるところなど
「アンタ試合用じゃなくてケンカ用だろ!?(笑)」
って感じのジィサマだったけど、
今の連中が「カッコイイ」かどうかばかり気にしたり
少しマシでも「試合の勝ち負け」を越えて考えられないのから比べると
武術が殺人技術・戦闘技術であることから離れないセンスは貴重に思えた。

「人を殺せる」技術だと見据え、思い詰めて怖くなってこそ
「人を殺して良いのか」
「そこまでして生きる価値ある己か」
なんて精神修養的側面・宗教的側面まで至る気がする。

武術自体が精神修養になったりはしない。
礼儀作法なんて江戸時代の公務員の処世術に過ぎない。
武士道なんて儒教と同じで支配者側に都合の良いように出来てる。
支配者に迎合するなら家畜と一緒だ。
武術は野生動物、生命本来の在り方でなければと思う。

中途半端は所詮は娯楽。「今が楽しけりゃいい」は家畜だ。

生き死にを見詰めずして心なんて定まらない。
人間も動物。
野生動物はそれだけで種として生きていられる。
本能の壊れた人間は、自己の利益を追求してて種としての+に働く保証がない。
もはや種として生きられないから生物・動物の流れからズレる。
本能を文化で代替した人間は「共存する意思」についての思索無しには野生動物以下でしかない。

家畜みたいな人間が増えてきた世の中だと思う。
生まれた時からエサと言えども食うには困らず
「いずれは肉にされる」ことに抗う自覚を得ず
安穏とした生活に流されて生きているのが家畜。
生き死にを見詰めない、あるいは逃げて忘れて今を生きるとしたら人間も家畜化するだろう。

「しょうがない」とか「じゃまくさい」とかいうセリフはだから嫌いなのだ。

安穏とした平和しか知らずして対岸の火事に「安心して」怒ってる平和運動なんてのも無意味に思うが、自己中心的に「己の強さ」だけを目を三角にして追求してる連中も不自然だ。

武術は突き詰めれば自然体、とは言われるが自然体って深く考えると凄く難しい。

ruminn_master at 2005年10月23日 17:00 【武】上野の森でコメント(0)トラックバック(0)  このエントリーをはてなブックマークに追加


武術のハナシ | 思索・雑感・主張

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