2005年11月03日

【武】日本の古武道見学 3

古武道明治神宮で毎年行われる秋の大祭への奉納演武。
古武道振興会の主催だ。

自分自身ここ10年近く
日本の武術を習う機会にも恵まれているが
自分の本籍はあくまでも中国武術に置いてる心算。
でも
同じ「人間」が
手が2本足が2本の勘定で命がけで作った芸術である。
両者にそれ程の違いはない。
マトモな流派・門派だけを見るならば、だが。

そして
日本人である以上、そして日本人であるのだから
日本の武術を知らずして辿り着けない場所もある。

第一、宗家だとか特殊な立場を別にすれば
「自分のトコが一番」とか軽々に言うことも
考えることすらも不遜だし、言ってしまえば「甘い」気がする。
死ぬ時に振り返って
「やってきたことは正しかった」ってのはカッコイイけどね。

今は情報化時代で
入門する前から「ああだこうだ」と理屈だけ知りすぎてる、
(それも正しいかどうかすら無批判な情報を集めている)
これはいざ習い始める時に白紙になれないから
目の前で師匠が指導員がやって見せてることが吸収できない。
「似たようなもの」を「自分なりに」真似て悦に入っている。
「鏡が歪んでいては正しい像は映らない」
「白紙でなければ絵は描けない」
教える方も苦労だが、習う方も不幸な時代だと思う。

「3年遅れても良師を探せ」はこんな時代の言葉ではない。

僕が真面目に武術に取り組み始めた時代は
まだ何流が何で、どの技がどうでだのは
今ほど流布されて居らず、正直自分自身
「○○がやりたい」とか無しに、縁有って始めたに過ぎない。
「そこに行けばまともなものが習えそうだ」
程度のカンであった。
センスというと面映ゆいけど武術のデータを集めて判断した訳ではない。

生来、運と縁と勘はいい方だ。ヒキも強い方だ。
誰に感謝したものやら不明だが、有り難く人生楽しませて貰ってる。

センスを磨くのは無批判な反復練習でも無ければ狭量な悩みでもなく
漠然とではあるけれど「教養」とか「感性」の範疇なような気がする。
自分自身の感受性と想像力、受容能力の問題だと思う。

さてそれはともかく
それにしても
自分の囓っていない武術に触れる機会を持たなければ不幸だ。

教えてる学生連中を今年も見学に連れて行った。
だいたい
自分たちの演武会日程の障害にならない限り見学に来るようにしている。

学生達は色んな流派を生で見るのは始めてである。
しかしそれなりのことは知っているので
それなりに楽しんでいるし
見ていると下手と上手の区別ぐらいはマトモについているようだ。

同じ流派でも門派が違えば趣が異なる。
そんなことにも学生達は気付いていた。

でも、そのうち学生達も飽き始める。
まぁ知識と認識の距離感もあるし
演武が長いのも有るけれど
(なんといっても朝の10時から夕方まである)
「よく知らない」違う流派といえどもパターンは似たり寄ったり。
マトモな流派同士は7割方共通してもおかしくないもの。
似通ってる同じような技は何度も出てくる。

あまり退屈してテンションが下がるのも後の練習に差し支える。

それでいいんだろうなぁ、とか思って学生を連れて引き上げた。
彼らがその時感じた退屈は
理屈で「同じ技」なのではなく
感覚で「同じように見える動き」な訳である。

センス。
武術の世界では言い訳のマジックワードみたいな面もあって捕らえどころがない。
ただ
これをどうやって磨くかのヒントがここにあるような気がする。

武術は理屈でもなければチカラでも無いと思う。
頭でっかちも筋肉バカも陥りやすい落とし穴だ。
ある種の逃げ道。逃げてちゃ武術はできないよね。

とはいえ難しさが判ってからが面白いのが武術。
面白がってるだけで
同じ処を堂々巡りして満足してる人も少なくないけど
真剣に取り組んでいる限り価値はあると思っている。

まずは
感受性と想像力だとは思うけど
どうしようもなく難しいところが残っている感じだ。
結局
「センス」とは「白紙になれること」なんじゃなかろうか。

ruminn_master at 2005年11月03日 15:30 【武】日本の古武道見学コメント(0)トラックバック(0)  このエントリーをはてなブックマークに追加


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