2005年11月30日

【考】排除は暴力だという視点 4

排除は殴りかかるに等しい暴力である。
仲間はずれ」を作ること、
あるいはそれに加担する行為は他人を殴る行為と変わらない。
気に入らない奴とはクチきかない」なんて人は誰かを殴りつけている乱暴者と同じだ。

僕にはそう見えているのだけれど
こう言ってしまうと
余りにも多くの人が「暴力的」であることになる。
だから
あまり誰も明言はしないが社会科学的にはそれほど突飛な発言では無い。

ませたガキだったので
高校時代には何となく自分なりのモノの見方は出来ていた。
その頃から漠然と考えていた「イジメの構造」みたいなものなのだが
大学に入って1年生の「社会思想」の授業が
現代思想で有名な今村仁司教授で、その指定教科書が
「労働のオントロギー」と「暴力のオントロギー」。
排除暴力」はその講義の柱の一つだったように記憶している。

大昔に受けた講義なので内容を覚えている訳もなく以下は私見である。

群れを為さない動物は縄張り争いでは噛んだり引っ掻いたりする。
群れを為す社会的動物は、その結果の勝者に多数が従い
敗者は群れから排除される。
ハグレ狼、ハグレ猿、
凶暴さばかりが目立つ存在となりがちであるけど、
集団で狩りをすることもできなくなった敗者は
生存することが困難であるために「そうせざるを得ない」のであり
彼自身を見ればゆっくりとではあるが瀕死の状態と言える。

だから
殴る蹴る、あるいは斬るとか撃つとかを原始的暴力とすると
内部秩序の維持のために構成員から排除するのは社会的暴力と言えよう。
社会的暴力によって殺すことと原始的暴力によって殺すことに本質的違いは無い。
ただ社会の構成員の側からして「死ぬところを見なくて済む」だけだ。
この社会的暴力を排除暴力と呼ぶ。

これは内部の平和は保たれるが、その外側の大きな社会を見た場合
凶暴な存在を生み出す原因となるから、社会的には不経済である。
内部経済の外部不経済。公害企業の理屈と一緒だ。

そして今の発達した社会では
動物社会ほどに明確な勝者も敗者も生じないから
「何となく」の連帯感の有無や好き嫌いだけで、無意味な排除が生じ易い。

たしかに今の世の中どうにでも生きて行けそうだから
「他の場所で生きていけ」と言う方は罪悪感無いのだろう。
しかし言われた方の人格、「ここで生きていきたい」という点は
問答無用で否定されている。そこに相手への配慮は無い。
説得も相互了解を求める作業も可能性の模索も無い。
既存の「自分」を守るということしか考えていない。
そして意識としては
「何となく」「自分」は「関わらない」だけだ。
あるいは関わるのが「じゃまくさい」と突き放すだけだ。
言われた方にとっては「問答無用」で否定されたことに違いはない。

これは排除される側にとっては原因が判らない分、悩みは深い。
そのくせ加害者が加害意識を持ちにくい巧妙な残酷さ。
まるでミサイルで大量殺人する現代戦のような様相である。
槍や刀で殺し合う戦争は残酷になりにくい。
加害者にとっても負担だからだ。

子供の「イジメ」でも直接の加害者以外に周辺で同調していた多数者が居る。
彼らは排除暴力をふるった者達なのだが加害者意識は得てして持ち合わせない。

排除暴力で加害者にならないようにするのはかなり意識しないとできない。
やってるつもりでも完全にはできない。
これを書いてる自分自身、そう思うのだ。
でも、これを許すなら、世を嘆く資格すら無いと思うから悪あがきするだけだ。

昔、上々颱風のリーダーの紅龍の音楽ポリシーが
「仲間はずれを作らない」だというから、そのバンドが気に入った経緯が有る。
でも長年見てきてどうにも「言ってるだけ」じゃないか、って思えてきて
最近特に嫌悪気味ではある。信じた方がバカなんだろうけど(笑)。

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現代思想の基礎理論

現代思想の展開

労働のオントロギー―フランス現代思想の底流

暴力のオントロギー
非国民のつくり方―現代いじめ考
群衆―モンスターの誕生
排除の構造―力の一般経済序説

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「イジメ」は何も子供の世界だけのハナシではない。

子供は親の社交態度や社会の気分をコピーしているのであって
気に入らない奴とはクチきかない
というタイプの人は子供のイジメを憂える資格は無い。
子供からすれば「みんなやってること」になる。
そんな社会に加担する行為だ。

学校の「イジメ」は
弱い立場の被害者に代わって親が異議を述べるから表面化し、
まだ救われる場合があるだけだ。

社会で居場所のない大人はどうなるだろうか。

地域社会が機能していた昔はキチガイと言えども隣近所、
接し方をみんなが考えつつ、目を離さなかったから
キチガイも暴走する機会が与えられにくいし、
キチガイの方も「ここで生きていく」ために合わそうとすることで
多少の修正ベクトルは掛かっていたのではなかろうか。

凶暴で変な性犯罪なんかが増えているけれど
こういうのも周囲の各人が
(自分は)変な奴とは関わりたくない
という考えで「変な奴」を排除し、
その暴力が「変な奴」を更に刺激して犯罪に走らせ、
反面
「変な奴」から目を背けるあまり目を離してしまった
その為に人の目の届かないところで異常性が育ってしまった
そんな因果関係があるように思う。

幼女が被害者となる事件を見るにつけ
加害者を排除した周辺の人間たち
特に加害者に対して排除暴力
すなわち笑ったり無視したりバカにしたりした「大人の女性」が
加害者の性的嗜好を歪めさせたように思えて
彼女たちも間接的な加害者ではないか、と思えてならない。

人は誰だって叩かれっぱなしでは居られない。
反撃するチカラの無い者は、より弱い方に向かってしまうのではないか。

だからといって
このような犯罪者を擁護する気も無いし
真っ当に弁護する余地も有るとは思わないけど
将来的に
この手の犯罪を減らすには排除暴力を減らす必要があると常々考えている。

「身持ちの悪い」女が多すぎる反面で娼婦宿が無いのが
「変な奴」にとっては「自分だけが報われない」なんて気持ちになって
悪意を醸成する素じゃ無かろうか、なんてことも思う。
 いっそ赤線復活すれば性犯罪は減るんじゃないか?

容疑者を擁護する気は更々無い
「異常者」「変質者」では片付けきれない
今の世の中の「仕組み」の不具合に思い至るべきだと思う次第。

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カルロス容疑者、日本語できず「孤立した日系定住者」
 
 容疑者は言葉も通じず、地域社会から孤立した日系定住者だった。広島市安芸区、市立矢野西小1年の木下あいりちゃん(7)を殺害、遺体を遺棄したとして30日未明、広島県警が逮捕した日系ペルー人のピサロ・ヤギ・フアン・カルロス容疑者(30)に、近所の人たちの多くがそんな印象を持っていた。

 同容疑者は約1か月前に引っ越してきたばかりで、周囲には陽気なそぶりも見せていたという。地域の住民は、逮捕の知らせに安堵(あんど)の表情を浮かべながらも、「容疑者が日系人」という新たな事実に、やり場のない怒りを募らせた。

 「まさか容疑者がうちのアパートにいたなんて」

 カルロス容疑者が住むアパート家主の男性(57)は、容疑者逮捕のニュースに驚きを隠さなかった。

 カルロス容疑者が入居の契約に訪れたのは10月末。契約日に顔を合わせた時には、「南米系の彫りの深い顔だな」という印象を持ったが、「日本語がしゃべれないので話はできなかった」。その後は一度も顔を合わせなかったという。

 アパート1階にはカルロス容疑者の親類が住んでいる。この親類について男性は「まじめで5年間、家賃を一度も滞納したことがない。この親類が保証人になるというので(容疑者も)信頼した。裏切られた気持ちだ」と肩を落とした。

 アパートは遺体の遺棄現場から北東約100メートルの通学路沿いにある。1、2階に各2室。カルロス容疑者は2階で1人暮らし。室内は6畳と4畳半の2Kで、家賃は月3万1000円だった。

 近所の男性は30日朝、知り合いの女性(70)からカルロス容疑者とみられる男の目撃情報を聞いた。男は赤いスリッパをはき、石垣の上に座ってチョコレートを食べながら、子どもたちをじろじろ見ていたことがあったという。

 別の主婦(71)は「11月に入ってから4、5回、アパートの前で立ち話をしているのを見かけた。こんなことをするなんて」と話した。

 一方、アパートを仲介した男性業者は、契約の際に会ったカルロス容疑者について「自動車メーカー関係の仕事を辞めたので、今は仕事を探していると言っていた。特に悪い印象はなかったが、目つきは少し鋭かった」と振り返った。

 カルロス容疑者が以前勤めていた自動車部品会社で、夫が一緒に働いていたというブラジル人女性は「よく仕事を休んだため解雇された。夫からは、友達があまりいなくて、周りからは好かれていないようだったと聞いた」と言う。
(読売新聞) - 11月30日13時29分更新
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051130-00000104-yom-soci
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この容疑者の場合は、
その性的嗜好の醸成過程は先述の通りとしてもそれは母国での問題か。
日本に来てからの孤立は
外国との経済格差や教育格差、労働問題、地域社会と外国人の在り方など
さらに複雑な問題が絡んでいるように思われる。

先の文脈でいう「イジメ」
つまり社会の側からの排除は直接の引き金では無さそうだ。
最後に引き金を引いた孤独な閉塞感は
外国に独り働きに来て会話も出来ず相談もままならない、そんな状況だろうか。
構図としては彼が自ら招いた孤独のようにも見える。

この事件の余波で地域社会からの外国人労働者の排除は加速しそうだが
物理的に鎖国するなどという暴挙を国が採るのでない限り
その排除暴力はまた再びどこかで新たな被害を生じさせると思うのは先の文脈のとおり。

地域社会として外国人を「取り込む」方法の模索、
それは日本語教育なのか、
現地語のカウンセラーを巡回させることなのか、
簡単ではないけれど、
そうしないと訪日する外国人の母国での「イジメ」の報復を日本社会が受けることになる。日本の中だけでも大変なのに、である。

その被害者は、やがて年老いた自分自身かも知れないし、自分の子供や孫かも知れない
排除する者は自身が暴力を揮う加害者なのだ。
排除は解決策たりえない。さてどうしましょうか?
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ruminn_master at 2005年11月30日 17:54 【考】排除は暴力だという視点コメント(0)トラックバック(1)  このエントリーをはてなブックマークに追加


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