2007年03月03日

【楽】阿国初日〜やっぱ本息の舞台は違うね 4

今日が初日の新橋演舞場での「阿 OKUNI 国

いやぁ流石に本息、
つまり
本番としてのテンションでの演技は
昨日見たゲネプロと全然と言っていいほど違うね。

ミュージカル 阿 OKUNI 国

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アトリエダンカン
松竹(新橋演舞場)
 平成19年3月3日(土)〜29日(木)
松竹(京都南座)
 平成19年4月3日(火)〜15日(日)

何度も見たステージだけど新たに面白かった。

猪熊少将(池畑慎之介)が輝いてたなぁ、さすが。


会場に着くと昨日と違って飾り付けも豪華。
館内も売店やら人混みで
「いかにも」な気分が盛り上がります。

hata

ゲネプロ見た時に
「若手がなんだかヘタだなぁ」
という気がしたのも、
結局のところは
テンション不足を補う程には芸達者じゃないから
それを身体の中の芸の蓄積で賄えるヴェテラン勢とは差が付いてしまったってことなんでしょう。

初日のステージでは
チャンと若手もテンション高く
セリフとセリフの「間」が合って来てた。

阿国の場合、アチコチに笑わせる部分が有るんだけど、
「笑わせる」ってのはかなり難しいものね。
(「笑われる」のは簡単だけど(笑))

落語や漫才で見れば
ネタフリからボケは滑らかに導かれ、
ボケに対するツッコミは鋭く、
ノリは出過ぎず引き過ぎず、
オチは見事に意外に「腑に落ちる」、
なんて感じで
ことごとく「間」が大事なもんだと思う。

緊張と緩和を
リズム良く積み重ねていかないとならない訳で、
そうすると
もしテンションが低い演者が一人混ざってると
それだけで一拍「間」が抜ける。

ゲネプロでは結構それが気になったんだけど、本番となると上手くいってたと思います。

人間同士、高いテンションに至れば、お互いが「繋がる」んだろうなと、やっぱり。


そしてヴェテランはヴェテランで本番となると凄みが出たりもしますね。

初演から17年経つ訳で、若さこそ減ったのだろうけど、まだまだ凄い。

今回は全体的に色恋沙汰や人間模様にハナシがシフトした感が強いので、芝居の要素が目を惹いたのもあるでしょうね。

 三九郎(若松武史)、人間離れしたような身体の動きは減ったけど、よくよく考えると最初から最後まで初代阿国を守ってる訳で、下品だけど現実的な、「実はイイ男」の味というかそういうのがジワッと出てましたね。
 ナナさんと上條さん、声の迫力は減ったけど身体は動くしセリフは深いし。


 お丹(二台目阿国)=ヒロイン役として三代目となる大和田美帆嬢(大和田獏・岡江久美子夫妻の娘)も役柄そのままに「まだ未熟だけど一生懸命」という感じで、良かったと思います。二幕目の登場から後半に架けてオーラが強くなるところも役柄そのままでいい感じだし。
(写真で見る限りとっても可愛い人みたいですが、昨日は隅っこだし今日は真ん中だけど三階席だったので顔立ちまで見えてません。。。楽日に行く時は双眼鏡持って行こう(笑)。御本人のBlogも頑張ってる様子が出てるし文章にも緩急有ってきっと人としても面白い人だね)
 上々颱風ファンの一番の心配というかキーポイントは異口同音に「春風」なんですね。後半で遊女となった(というか遊女→二代目阿国になろうとして決意した)お丹が心情籠めて歌い上げる「春風は河を渡る」、これはファンの思い入れが元々とっても深い曲なので、おそらくこのシーンの出来次第で上々颱風ファンの大和田美帆さんの評価はどっちにでも転びそう(笑)。
 今日のみんなの意見としては「上手くはないけど判った上で声が出てたのがいいよね」で、今までの三世代の中でも評価高いですな。サトチャンと較べるからねぇ、どうしても。無理に上手く歌おうとするより役柄そのままに「勢い」こそに説得力が出ると思うんだよね。
 初代のミッチョンのイメージ強いしね、初演の頃から見てる我々としては。でもミッチョン(芳本美代子)は元々アイドルとしてある程度売れてカタチが有った分、「春風」は「彼女なりの完成形」でしか無かったと思います。ひとつの完成形として聞きやすかったし違和感も無かったけど。
 二代目の池田有希子さんはたしか阿国プロデュースのアトリエ・ダンカンの社長令嬢だったと思うけど、無理に上手く歌おうとして声が出てなかったという印象です。小さくまとめた気がする。それは初代のミッチョンと較べられるから可哀想だったんですよね。僕らも頭で判っててもどうにも難しい。大変だったろうと思います。
 そのワンクッションが有る分、今回の大和田美帆嬢は客も落ち着いた評価ができそう。いい感じだと思います。
 そうそう、三世代の中で一番グラマーかも(笑)。
 ミッチョンも池田さんも二代目阿国の色気を前面に出した衣装の時にワザワザかなり目立つ胸パッドで強調した衣装でしたが、今回の大和田さんは元々立派な感じ(笑)で、むしろ抑え気味な衣装だと思うけど、それでも迫力有る。。。今の時代の女子ですな(笑)。

やっぱり初演から20年近くもなるといろいろ変わりますよね。

そういう変化に対応するかのように
今回は
脚本と演出が前回(2003年)からワリと大きく変わった印象。
といっても大筋や基本的なセリフ廻しが違う訳では全くない。

なのに変わった。

一言で言うと「哀しいハナシになった」気がする。
(もともとハッピーエンドではありませんが)

 そして自由か安定かのよくよく考えると小難しい物語から、恋愛感情と現実の軋轢といった判りやすいハナシになった気がします。

踊りも音楽も派手にグレードアップして楽しいんですけど。

あくまでも何度も見てるだけの
上々颱風ファンの印象だけど。

そのファンの部分をひとまず置いて、つまり
エミチャンがキレイだのサトチャンが可愛いだのってタワゴト(笑)を置くと、
前回までのこの御芝居、

「時代は変わっても
 『阿国』の、
 心の自由な人間の奥底の
  自由への渇望は決して潰せない!」


みたいな、何か反骨心みたいなものが最後に残った気がするのです。
少し哀しい負け惜しみに見えるかもな、って気持ちを背景として。
暗いハナシで終わるのだけどどこか後味が少し爽やか。

打たれても叩かれても「俺は死なねぇぞ!」みたいなの。
そう言いながら笑ってる気がしてた。

時代とか実利的欲望(楽な生活したい等)に背を向けた「芸人」=自由人の物語として、(初代)阿国はギリギリ「勝った」か少なくとも「負けてない」気がしてた。


今回、何だか初代阿国は「負けた」ような後味が残ってる。
少なくとも「勝ってない」気がした。
「死なねぇぞ!」って叫びながら生き続けるんだけど泣いてるような。


大きなストーリーの運びが変わってる訳では無いのだけれどね。

微妙な組み立てで主役が代わった印象を受けるからかもしれない。
まだ完全にではないにせよ、
主役が初代阿国から二代目阿国に移ってる気がした。

この「物語の主役は誰か」は実は難しい問題で
もちろん座長は木の実ナナさんだし、
この「舞台の主役」はナナさんでしょう。
にしてもハナシの運びの上では何か微妙にシフトしてる気がします。

皆川博子さんの原作「二人阿国」ではむしろ主役は二代目の方だから「もともと」「もとから」そういうハナシで、自分が誤解してきただけかも知れませんけど。

本来のストーリーは何ら変わらないのだけど
部分部分が判りやすく深くなったんですね。
その深く掘り下げた部分が
二台目阿国(大和田美帆)の心情に関わる部分だからかも。
そしてその分
初代阿国(木の実ナナ)の描かれ方は恋愛感情に矮小化されて

「心の底からわき起こってくる自由に動かされて何が悪いんだ!」

ってエネルギッシュな部分はむしろ目立たなくくなったような。

問題は両方の阿国にキーポイントで関わる2人、
三郎左(上條恒彦)と猪熊少将(池畑慎之介)。

この2人とそれぞれの阿国との関わりの場面を見ると
二代目阿国との描かれ方の方が深かった気がします。

三郎左初代阿国の関わりの場面で好きなのが
乞食から遊郭の番頭に出世した三郎左のセリフ


「ただな・・・この四条の河原が・・・ワシによそよそしく見えるんじゃい!」


初代阿国三郎左へのセリフ


「乞食だったアンタの方が・・・ずっと大きく見えたよぅ」


この2場面での応酬で
安定と自由の綱引きが見える。

前までは「自由」が勝ってたんですね。

けど今回この部分、
間が短く演出されて、軽く扱われてるんです。
だから
三郎左(安定)のセリフや態度が

「それはそれとしてしょうがないだろう」

って開き直りが強く、未練が少なく見える。
その反面で
初代阿国(自由)のセリフや態度が負け惜しみに見える。

ここが一番引っ掛かってるんですよ、俺は。

で、三郎左二代目阿国との関わりについては
最初の三郎左初代阿国のやりとりに続く場面、
遊郭の水上げ当日の場面で
共に今の立場、
それは
「自由」を売って得た「安定」であり
本来なら偽りの「輝き」なのですが
それを肯定するシーンが強調された。
描き方自体は悔しげで「実は」ってのは有るにせよ、です。

で、この二代目阿国の芸人仲間との恋、
つまり「自由」な恋愛感情も
遊女という立場、二代目阿国という立場(安定)の前に捨てられるシーンが続く。

その後に、今度は
初代阿国の恋人であった猪熊少将(池畑慎之介)は
初代阿国(自由)と二代目阿国(安定)との狭間で苦悶し、
ひとまずは二代目阿国(安定)を受け入れ、
共に「真実」とか「自由」といった世界からはひとまず墜ちていく。

でこの後、
結局この猪熊少将
本来望んでいた「自由」(革命)にも破れ
「自由」で有り続ける初代阿国とは死をもって決別していく。
「阿国だけは」自由でいてくれと叫びながら自害する。

で、結局(初代)阿国は不自由な京の都から「自由」があるかもしれない江戸に向かって走る。

「私の居る場所が都なんだ!」

それがラストシーンですが、
この流れ、どうにも「自由」が肯定的に扱われている気がしない。

周囲を取り巻く人々全てが「現実」に飲み込まれていく中で、(初代)阿国だけが「自由」に居場所を求めて駆けていく。

この結末に至る大筋は何も違わないのだけど、
描かれ方が
初代阿国は孤立、
あるいは三九郎という惚れられた男と二人だけ、
つまり
小さい単位で「好きにやってろよ」って扱いに見える。
逆に時代に流される側にはタップリ言い訳させてる。

「そっちの方が人間らしいのかも、だけど現実はこんなもんでしょ」

その言い訳を否定する部分
(三郎左と初代阿国のやりとり)
を軽くして、肯定する部分
(三郎左と二代目阿国のやりとり)
を重くしてる。

さらに
「そうはいかない現実」として深く描かれるのが
初代阿国にとって大事な存在であった猪熊少将を、いわば殉死させる場面。

どうも今年の阿国はそういう方向に思えます。

前回までとかなり違うと思うなぁ。

「自由ってこんなもんだぜ」って。
たしかに末路哀れは覚悟の上、
貧乏だったり虐げられたりするけど、
それでも俺らは自由なんだよ、
あんたら家畜みたいに飼われて生きてて楽しいかぃ?
って負け惜しみ混じりの、でも気骨溢れる、
河原乞食の凱旋歌だったと思うのだけどなぁ、最初。

現代の観客、時代、そんなもんに合わせたのかな?
商業演劇だし、演じてる人々も世代交代だし
そもそも現代の役者は「末路哀れは覚悟の上」では無いでしょうしね(笑)。

う〜む。

俺は野良猫みたいな自由人が好きですけど。
(だから上々颱風ファン(おぃ))(笑)

文句言ってるんじゃないですけどね、東京の楽日にも行きますし(笑)。
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ruminn_master at 2007年03月03日 20:55 【楽】阿国初日〜やっぱ本息の舞台は違うねコメント(0)トラックバック(0)  このエントリーをはてなブックマークに追加


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