2009年06月27日

【歴】分倍河原古戦場跡(歴史の寄り道) 3

府中宿から日野宿までの間でバスは寄り道。

江戸五街道よりずっと昔のお話。

分倍河原古戦場01
分倍河原古戦場02
分倍河原古戦場03

永享の乱えいきょうのらん

1438年(永享10)8月から翌年2月にかけて,鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実,憲実を援護する将軍義教との間の抗争に端を発した東国の内乱。幕府と鎌倉府の関係は両府の成立以来必ずしも良好といえるものではなかった。とくに上杉禅秀の乱以後は持氏が禅秀与党の征討と称して,反鎌倉,親幕府的な東国諸氏の討伐を敢行したことによって対立はますます深まっていった。乱後の持氏と憲実との関係も微妙なものであった。持氏は反鎌倉的な東国諸氏に強硬な態度で臨んだのであるが,憲実は融和的,親幕府的であった。このような相違は1437年持氏が将軍の分国である信濃国へ出兵して小笠原氏を攻めようとしたときに表面化した。このとき憲実は反対したが持氏が聞き入れないため,憲実は鎌倉から藤沢に退いた。持氏が憲実の忠告を入れて和解したが,両者の険悪な対立状況はなお続いた。翌38年6月,持氏は嫡子賢王丸(義久)の元服式を鶴岡八幡宮で行ったが,このとき前例となっていた将軍義教の偏諱(へんき)を受けなかった。将軍の偏諱を請うことを勧めていた憲実はこれを不満とし,また持氏が憲実を退治するとの風聞が立ったため憲実は8月14日上野(こうずけ)に退去した。憲実が鎌倉を去ると,持氏は一色直兼らに命じて憲実を追撃させ,みずからも武蔵国府中に出陣して憲実を討とうとした。
 このため憲実は幕府に援軍を求め,幕府も関東・奥羽の諸氏に持氏追討令を発し,駿河今川,甲斐武田,信濃小笠原氏らの近隣諸国守護が関東に攻め込んだ。憲実も越後・上野の兵を率いて10月19日武蔵国分倍河原(ぶばいがわら)に着陣し,持氏の降伏を待った。鎌倉を守っていた三浦時高は持氏に反し,憲実に応じて,11月1日に大倉御所を焼いた。そのため嫡子義久と足利満貞は報国寺に逃れ,安王丸と春王丸は下野日光山に走った。ついに持氏も降伏を決意して鎌倉に帰り,金沢称名寺に入って剃髪し,近臣上杉憲直と一色直兼を切腹させた。憲実は持氏父子の助命を将軍義教にしきりに請うたが許されず,翌39年2月10日,上杉持朝,千葉胤直に命じて持氏の居所永安寺を攻めさせ,持氏は自害した。ときに持氏42歳,義久14歳であった。ここに足利基氏以来4代にわたる鎌倉公方の東国支配は終わり,結城合戦を経て,49年(宝徳1)持氏の末子足利成氏によって鎌倉府が再興されるが,上杉氏との対立を深めて享徳の乱となり,関東は戦国時代へと移行していった。
 永享の乱の直接的な原因については幕府と鎌倉府との対立があげられる。将軍と鎌倉公方との対立は両府成立当初から存在していた。ことに義教は将軍専制を確立するため,持氏を挑発し,持氏はそれに乗せられて滅亡したとするのが通説である。また鎌倉公方と山内上杉氏との対立も大きな要因であった。この対立の根底には守護領国内部の矛盾,より広くいえば鎌倉府支配体制下における東国社会内部の矛盾があったのである。
                        伊藤 喜良

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この辺りの歴史は不勉強だなぁと自覚。

ruminn_master at 2009年06月27日 15:15 【歴】分倍河原古戦場跡(歴史の寄り道)コメント(0)トラックバック(0)  このエントリーをはてなブックマークに追加


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