道中道楽

生きてること自体「道中」。 積極的に、前向きに、「道中を楽しむ」 そんな奴だからこそ、楽しいこともやってくるんじゃないかと思っています。 いやもっと言えば、その『道中』こそが面白い。 だから 「食い道楽」「飲み道楽」「旅道楽」、 そんなもの全て含んで越えて『道中道楽』。 長文駄文ですがお付き合い下さいませ。よろしく。

史跡

【史】大隈講堂の見学4

たまたま散髪で早稲田に行ったら大隈講堂の一般開放をしていた。

大隈講堂01

早稲田大学 - 早稲田エピソード -
東京文化財ウィーク | 施策情報等 | 東京都生涯学習情報

大隈講堂02

で、「なんだろう?」と思いつつ入っていったら、これまた偶然に

「今から記録映像を上映します」

大隈講堂03


ってので見て、そしたらガイドツアーもしてくれる、っていうので、楽しんできました。

大隈講堂なんて、学生時代でさえも何かの講演会で大講堂、あと健康診断で小講堂ぐらい。

あと新入生の頃にガイドツアーがあったのかな。

2007年に国の重要指定文化財になったとかで、そうなると気楽に改修も出来ない。そう言えばその直前に大改修してましたな。

2006年07月15日 17:45 【景】これはこれで

さてさて、ガイドツアー、理工の建築学科の院生さんが案内してくれての見学タイム。

ステージ側から見るなんて色んな意味で珍しいですな。

大隈講堂06
大隈講堂05

その後、貴賓室。

大隈講堂04


まぁここは演劇なんかもやるので、そうなるとここはタレントクロークなのかな?でもまぁ肖像写真もあり、古そうな家具調度もあってそれなりに重厚な感じでした。

そこから大隈庭園側の回廊へ。

大隈講堂07
大隈講堂08
大隈講堂09

大隈重信侯。これは軍服ですかな。

大隈講堂10

史跡と言うことで可能な限りは保存、そして復元、痛みの激しい外壁部分は復元、内側は昔のまま保存、とのことですが、自分のような素人が眺めてる程度じゃ区別は全くつきませんです。

大隈講堂11

そこから2階へ。

大隈講堂12
大隈講堂13

2階ロビーも美しいけど、2階から見るホールも立派です。

大隈講堂14

でまた、今回の改修に当たってはバリアフリーやら音響の最新設備も導入され、後部には同時通訳室もあるし、全ての椅子にはLAN端子やら音響機器が備わっていました。

大隈講堂15
大隈講堂16

その後、時計塔を昇らせて貰って、工事部品など色々。

昭和2年の棟上げ式の木札が綺麗なままありました。

大隈講堂17

そして時計室。

大隈講堂18

ここまで来たこと無かったような。あったっけな???

でもって、これは絶対来てないぞ、って鐘楼部分。

大隈講堂19
大隈講堂20
大隈講堂21

この鐘は1日6回鳴らされる現役です。

さすがに機械式だけど(笑)。

大隈講堂22
大隈講堂23

鐘楼からの眺めは素晴らしい。

キャンパスを眺む。

大隈講堂24

東京タワーはビルの死角で見えないけれど、建設中のスカイツリーも見えてます。

大隈講堂25a
大隈講堂25b

いやぁ偶然にしては充実した見学会でした。

ここまで来ると、何でもアリガタイ(笑)。

大隈講堂26
大隈講堂27

でもまぁ身贔屓じゃなくて美しい建築物ですな。

大隈講堂28

ロマン主義、様式建築の粋。

威風堂々。

【観】石舞台古墳(奈良)

自分も小学校の遠足で来たこと有るけど、今日も子供が一杯でした。

石舞台01

小学校の子供達がクラス毎の記念撮影してる時間がひっきりなしに続くので、これが精一杯ですな。人が居ないと大きさがぴんと来ないからちょうどイイ感じかも。

石舞台02

要は棺桶の囲い(笑)ですが、質量感覚は圧倒的ですな。

石舞台03
石舞台04
石舞台05

国営飛鳥歴史公園

【観】田舎の原風景と那珂川の鮎三昧(エピナール那須OPネイチャーツアー)4

ブログネタ
那須高原のリゾートホテル「ホテルエピナール那須」の宿泊体験をブログにお書き下さい! に参加中!
ホテル エピナール那須の数あるオプショナルツアーの中には「ネイチャーツアー」というカテゴリーのものがあります。

ネイチャーツアー01

爽やかな秋の晴天で、稲穂もすっかり実る時期。

このネイチャーツアーはホテルからバスで出かけて戻ってくるミニツアー、チェックアウトから送迎バスの発時間までの隙間を有意義に埋めてくれる格安でちょっと他では味わえない、那須高原の地の利を活かしたイベントといったところ。

ホテル名の「エピナール那須」の「エピナール」=ホウレン草(仏)→ポパイとの連想ゲームから、このネイチャーツアーの企画・運営は「オリーブ」と銘打たれたプロジェクトチームがホテルの各部署から集められて任されているそう。

ユニークなこと考えるには知恵を集めないとね。

牧場散策して乳搾りをしてその牛乳でバターを作るとかなかなか面白いものも多く、また例えば紅葉鑑賞ツアーなどは1年も前から予約の入るような人気のものらしい。

またハイキングなどは各所でプロのネイチャーガイドを勤めてきた「すーさん」っていう方が付いてくれるそうで、この人はフジテレビが昔やってた旅番組「晴れたらイイネ」にも何度も登場していた有名人だそうですが、今は普段このホテルの陶芸体験教室で指導をされたりしているとのことで人材が集まっているのはホテルに活気のある証拠ですな。

今のこの時期は皇室映像などでもよく見掛ける景色の【沼原湿原散策ツアー】と、落ち鮎ランチが目玉の【田舎の原風景と那珂川の鮎三昧】などが催行。

自分は色気より食い気なので(笑)、鮎三昧に参加しました。

余一やなの鮎料理07

【田舎の原風景と那珂川の鮎三昧】

ネイチャーツアー00


那須町芦野の「遊行柳」、福島県「白河の関」と俳人松尾芭蕉の足取りを辿りながら奥の細道と那須の歴史に触れる。「余一やな」では鮎づくしの定食をお召し上がりいただきます。
◆開催日:09年9月1日〜10月9日◆定員:30名◆参加費:500円/別途昼食代1,050円(昼食付)(昼食付)

タイトルの「田舎の原風景」ってのは昔ながらの農村風景程度の意味合いのようで、この界隈の史跡の周囲は比較的「昔ながら」という感じだということかな。

たしかに稲穂も実るこの時期の田園風景は独特の郷愁を誘う感じです。

ネイチャーツアー02
ネイチャーツアー01
ネイチャーツアー03

稲穂に蜻蛉に彼岸花に秋桜。

ネイチャーツアー05
ネイチャーツアー04
ネイチャーツアー06

季節はすっかり秋めいてます。

遊行柳

遊行柳02

芭蕉が「奥の細道」で

♪♪♪「田一枚植て立去る柳かな」

と詠んだあの柳ですが、歴史はもっと遡るそうな。

(参考:遊行柳について

田圃の中にポツンと、でもそこそこ立派に柳の木立。

遊行柳01

芭蕉の句碑が有りますし、西行の、謡曲の、と、解説の立て看板も一杯あるけど、こりゃ基礎教養の必要な史跡ですな。

遊行柳03

樹木として、景観として見る限りでは、背後の森を形成する神社にある大銀杏の巨木が立派でした。

遊行柳04

「上の宮の銀杏」として町指定の天然記念物だそうな。

上の宮の銀杏

巨樹、古木って好きです。

白河関跡

白河関跡01

白河の関 - Wikipedia

入り口のボランティアガイドのオジサンに説明を受けて中に入りましたが、「関」と言っても江戸時代の通行手形の世界ではなくて、もっと古い遠く5世紀とかのもの。

要は門番が居て不審者を見張る場所、蝦夷から大和への進入を防ぐ目的の監視塔みたいなものか。

白河関跡02
白河関跡03
白河関跡04


昔の街道沿いにあったらしい古い社と、土塁・空堀跡が公園を形作っているばかりですが、古木で鬱蒼とした森は何となく厳かで、華やかさこそ無いけど理屈抜きの歴史の重みとでも言うのか、何となくですが気持ちは不思議と落ち着きますな。

道の駅 東山道伊王野

道の駅東山道伊王野01

トイレ休憩とお土産購入場所という感じで道の駅への立ち寄り。

道の駅というのも最近では各地の特色が強く出ていて、ここはデカイ粉挽き水車が備え付けられていることが示すように蕎麦の名店らしい。

道の駅東山道伊王野02

昼食前なのでさすがに蕎麦は食えないけど、自分で蕎麦は打つので蕎麦粉を少々仕入れたのと、あと「蕎麦ソフトクリーム」が有ったので食べてみました。

道の駅東山道伊王野03

道の駅東山道伊王野04

なかなか蕎麦の香りが華やかに感じられて、甘さも控えめで美味しい方かと。

(今までで抜群にハズレだったのは北海道で食った「ナマコアイス」だったな。。。)

この後、余一やなで鮎尽くし昼食ですが、それは別記事にて。

ちなみにこの「余一」ってのは当地出身で有名な那須与一が本当は「与一」ではなくて11番目の子だからこその「余一」というネーミングだそうです。

あっちでも書いたけど、この鮎尽くし昼食はかなりの満足感でした。

朝の9時にホテルを出発したこのツアー、昼の1時過ぎにホテルに戻りましたから、たった4時間ほどではありましたが結構充実していました。

これがたった500円(+食事代1050円)ってのは完全にホテルのサービスですな。

季節ごとに色々面白そうです。

☆ホテル エピナール那須 体験モニター☆
  1. 【旅】ホテルエピナール那須(栃木県那須高原)体験モニター
  2. 【食】旬彩厨房 レモンバームでランチ(ホテルエピナール那須)
  3. 【食】日本料理 那珂川 (ホテル エピナール那須)
  4. 【食】エピナール那須の朝食バイキング
  5. 【旅】朝市とお土産と(ホテル エピナール那須)
  6. 【観】田舎の原風景と那珂川の鮎三昧(エピナール那須OPネイチャーツアー)
  7. 【食】余一やな鮎料理で昼食(エピナール那須ネイチャーツアー)
  8. 【茶】ティーラウンジ オークレール (ホテルエピナール那須)

【歴】東京都内唯一の本陣跡(甲州道中10 日野宿)3

日野宿は石田寺(土方歳三の墓)も予定地だったけど、時間の都合か次回に回したかで本陣だけ。

日野本陣跡00

「日野本陣」東京都日野市 −建築家・酒井哲のコラム
日野宿本陣跡・ふるさと博物館
日野市立新選組のふるさと歴史館HP

あまり時間がなかったので、解説ボランティアの人ももっと喋りたそうでした(笑)。

本陣跡の向かいは図書館ですが、その前に問屋場跡の碑がありました。

日野問屋場跡00

ここはもっと本陣跡でゆっくりしたかったかな。
[日野宿]

 日野宿は内藤新宿から7里26丁(30km余),東の府中宿へ2里,西の横山宿(現,八王子市)へ1里27丁48間で,府中宿,横山宿のほか脇往還岩槻道の小川新田(2里)への継立ても負担していた。町並みは幕末には9丁続いていた。1717年(享保2)の百姓家数は426軒,人数1735人で,馬数は183疋であった。宿の問屋は2人,馬指(うまさし)・定使(じようづかい)は2人である。職人が8人,商人が15人いたが,商人は酒,豆腐,わらじ,タバコなどを商い,甲州道中を通る旅行者相手の商業とみられるものが多い。多摩川の対岸柴崎村との間には甲州道中では数少ない渡船があった。日野宿で経営し,日野の渡と呼ばれたものである。この渡船は1824年(文政7)以前は毎年3月から10月までで,そのあと翌年3月までは土橋を架けて渡っていた。しかしこの年以後,渡船賃を3割増にするとともに,通年渡船で渡ることになった。27年に多摩川両岸にわたる47ヵ村で日野宿組合が結成されると,その中心である寄場になったが,これらの村のほとんどは経済的には八王子の市場圏に入り,日野は市が立つこともなく,宿場町で推移した。                   伊藤 好一

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とりあえず今回の甲州道中の旅はここまで。

次回も参加できるかな。

【歴】谷保天満宮(歴史の寄り道)3

これは先の分倍河原古戦場よりさらに前の時代ですな。

源義経が頼朝に鎌倉に入るのを許されるのを待って写経してた神社ですが、天満宮としての由緒もなかなかのもの。

谷保天満宮01
谷保天満宮02

源義経みなもとのよしつね

1159‐89(平治1‐文治5)

平安末期〜鎌倉初期の武将。源義朝の末子,頼朝の異母弟。母は九条院の雑仕女(ぞうしめ)常盤(ときわ)。幼名牛若,九郎と称す。平治の乱(1159)で父義朝が敗死したのち母および2人の兄今若(のちの阿野全成(ぜんじよう)),乙若(のちの円成(えんじよう))とともに平氏に捕らえられたが,当歳の幼児であったため助けられて鞍馬寺に入れられた。この時期の義経の行動についてはまったく不明で,ほとんどが伝説・創作の域を出ない。
 源九郎義経の行動が史実として確認されるのは,1180年(治承4)兄頼朝の挙兵を聞いて奥州平泉より駿河国黄瀬川に参陣してから以後のことである。頼朝の麾下に加わった義経は《吾妻鏡》にも〈九郎主〉と表現されるように,源家一門の御曹司として処遇され,頼朝の代官として,異母兄の範頼とともに平氏追討の大将軍として活躍した。84年(元暦1)1月まず京都にいた木曾義仲を討ってこれを近江に倒し,都の覇権をにぎった。ついで2月には平氏軍を一ノ谷に破ってその入京の勢いをとめた。この合戦における鵯越(ひよどりごえ)の奇襲は有名である。さらに翌85年(文治1)2月には讃岐国屋島の平氏軍を襲って大勝し,海上にのがれた平氏軍を追って関門海峡の壇ノ浦に戦い,これを全滅させた。3月24日のことである。その機知に富んだ戦術で平氏を討滅した義経は一躍英雄として都の内外の人々にもてはやされた。そして当然その功を賞せられるべきであったが,平氏追討戦の間に梶原景時以下の関東御家人と対立したばかりでなく,後白河上皇の頼朝・義経離間策にのせられて頼朝の認可をまたずに検非違使・左衛門少尉になったため,鎌倉御家人体制の組織を破る独断行為として頼朝の不興を買い,疎外されるに至った。義経は腰越状(こしごえじよう)を送って弁解したが,ついに鎌倉に帰ることを許されず,追放の身となった。追いつめられた義経は,叔父行家と結んで反逆を企て,85年10月18日,後白河上皇に強要して頼朝追討の院宣を得た。しかし義経らが結集しえた軍勢は少なく,この計画は失敗した。西海にのがれようとして摂津の大物浦に船出したが難破し,そののちは畿内一帯に潜伏して行方をくらまし,やがて奥州にのがれて藤原秀衡(ひでひら)の庇護を求めた。しかし秀衡の死後,その子泰衡は頼朝の圧迫に抗しえず,89年閏4月30日,義経を衣川の館に襲撃し,これを自害させた。数奇な運命にもてあそばれた悲劇的な義経の生涯は,多くの人々の同情を集め,後世には彼を英雄視する伝説・文学を生む結果となり,世に〈判官びいき〉の風潮を作った。
                        安田 元久
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谷保天満宮02
谷保天満宮03

甲州街道の通る場所が変わった関係で、今は階段を下りてお参りする形になってる珍しい天満宮です。

天満宮って北野の系統は「悪いことが起きないように」であり、太宰府の方は「願いが叶うように」ですけど、ここの由緒って微妙なので、どっちなんだろうかと悩みつつ「とりあえずがんばります」って感じでお参りしてました(笑)。

【歴】分倍河原古戦場跡(歴史の寄り道)3

府中宿から日野宿までの間でバスは寄り道。

江戸五街道よりずっと昔のお話。

分倍河原古戦場01
分倍河原古戦場02
分倍河原古戦場03

永享の乱えいきょうのらん

1438年(永享10)8月から翌年2月にかけて,鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実,憲実を援護する将軍義教との間の抗争に端を発した東国の内乱。幕府と鎌倉府の関係は両府の成立以来必ずしも良好といえるものではなかった。とくに上杉禅秀の乱以後は持氏が禅秀与党の征討と称して,反鎌倉,親幕府的な東国諸氏の討伐を敢行したことによって対立はますます深まっていった。乱後の持氏と憲実との関係も微妙なものであった。持氏は反鎌倉的な東国諸氏に強硬な態度で臨んだのであるが,憲実は融和的,親幕府的であった。このような相違は1437年持氏が将軍の分国である信濃国へ出兵して小笠原氏を攻めようとしたときに表面化した。このとき憲実は反対したが持氏が聞き入れないため,憲実は鎌倉から藤沢に退いた。持氏が憲実の忠告を入れて和解したが,両者の険悪な対立状況はなお続いた。翌38年6月,持氏は嫡子賢王丸(義久)の元服式を鶴岡八幡宮で行ったが,このとき前例となっていた将軍義教の偏諱(へんき)を受けなかった。将軍の偏諱を請うことを勧めていた憲実はこれを不満とし,また持氏が憲実を退治するとの風聞が立ったため憲実は8月14日上野(こうずけ)に退去した。憲実が鎌倉を去ると,持氏は一色直兼らに命じて憲実を追撃させ,みずからも武蔵国府中に出陣して憲実を討とうとした。
 このため憲実は幕府に援軍を求め,幕府も関東・奥羽の諸氏に持氏追討令を発し,駿河今川,甲斐武田,信濃小笠原氏らの近隣諸国守護が関東に攻め込んだ。憲実も越後・上野の兵を率いて10月19日武蔵国分倍河原(ぶばいがわら)に着陣し,持氏の降伏を待った。鎌倉を守っていた三浦時高は持氏に反し,憲実に応じて,11月1日に大倉御所を焼いた。そのため嫡子義久と足利満貞は報国寺に逃れ,安王丸と春王丸は下野日光山に走った。ついに持氏も降伏を決意して鎌倉に帰り,金沢称名寺に入って剃髪し,近臣上杉憲直と一色直兼を切腹させた。憲実は持氏父子の助命を将軍義教にしきりに請うたが許されず,翌39年2月10日,上杉持朝,千葉胤直に命じて持氏の居所永安寺を攻めさせ,持氏は自害した。ときに持氏42歳,義久14歳であった。ここに足利基氏以来4代にわたる鎌倉公方の東国支配は終わり,結城合戦を経て,49年(宝徳1)持氏の末子足利成氏によって鎌倉府が再興されるが,上杉氏との対立を深めて享徳の乱となり,関東は戦国時代へと移行していった。
 永享の乱の直接的な原因については幕府と鎌倉府との対立があげられる。将軍と鎌倉公方との対立は両府成立当初から存在していた。ことに義教は将軍専制を確立するため,持氏を挑発し,持氏はそれに乗せられて滅亡したとするのが通説である。また鎌倉公方と山内上杉氏との対立も大きな要因であった。この対立の根底には守護領国内部の矛盾,より広くいえば鎌倉府支配体制下における東国社会内部の矛盾があったのである。
                        伊藤 喜良

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この辺りの歴史は不勉強だなぁと自覚。

【歴】甲州街道と鎌倉街道の交差点(甲州道中9 府中宿)3

府中は歴史が古く、その反対に現代でも大きな都市となっているために江戸時代の宿場町の面影はほとんど無いに近い。

今回のバスツアーも江戸より古い話から。

大国魂神社

大国魂神社01

厄除けは東京・府中の大國魂神社へ

時期が時期だけに「茅の輪くぐり神事」もやってきました。

馬場大門の欅並木

馬場大門の欅並木01
馬場大門の欅並木02

馬場大門のケヤキ並木 - Wikipedia

高札場跡

府中高札場跡01
府中高札場跡02
府中高札場跡03

江戸時代の宿場町の名残はこの辺りだけの感じ。

大国魂神社の御輿の御旅所として機能してる場所なだけに、かえって宿場の高札場跡をアピールする気が無いんでしょうけど、「それらしい」高札のひとつも掲示しとけばいいのにね。
府中[市]ふちゅう

東京都中部の市。1954年市制。人口21万6211(1995)。市街地は多摩川北岸の沖積地と立川段丘上に発達する。大化改新後,武蔵国21郡を支配する国府が置かれ,政治・経済・文化の中心として栄えた。江戸時代には甲州道中の宿場町として発展し,明治に入り郡役所が置かれるなど,北多摩地方の中心地であったが,1889年新宿と立川を結ぶ甲武鉄道(現,中央本線)が市域の外を通ったため一時さびれた。しかし,1916年に京王電気軌道(現,京王帝都線)が新宿との間に開通,その後立川と川崎を結ぶ南武鉄道(現,JR 南武線)も通じて,交通条件は改善された。また23年に多摩霊園,33年中央競馬会の東京競馬場,35年府中刑務所が開設されるなど,東京の近郊都市化が進められた。第2次大戦中には陸軍燃料宜や電気,製鋼などの軍需工場が設けられて工業化の基盤が形成された。戦後これらはアメリカ軍施設や民需用に転換,さらに60年代以降,食品,電気など多くの工場が進出した。都心への通勤者が増大するとともに住宅地化も進み,60年代に年平均1万人の人口増加がみられた。市内には武蔵国総社として由緒ある大国魂(おおくにたま)神社,中世の分倍河原(ぶばいがわら)古戦場や馬場大門のケヤキ並木など史跡が多く,東京農工大学,多摩川競艇場などもある。            井内 昇
[歴史]  地名は武蔵国の国府の所在地であったことに由来し,総社六所宮(現,大国魂神社),国司藤原秀郷の居館と伝える高安寺などもあって,古代以来武蔵の政治・軍事上の要地であった。中世には鎌倉街道が通じていた。近世には内藤新宿,八王子横山宿に次ぐ甲州道中の大きな宿駅で,本町,番場宿,新宿の3町に分かれ,1ヵ月の伝馬役を分担していた。徳川氏は六所宮を尊崇して隣接する八幡宿の地500石を朱印地として与え,また初期には馬市もにぎわった。1617年(元和3)以来,府中の上田8反歩で将軍召上り料のマクワウリが栽培され,肥料や人足が周辺の府中領農村に課せられた。武蔵野新田の開発に当たっては1740年(元文5)篤農の川崎平右衛門が登用されて新田世話役となり,農民の尊敬を集めた。近代に入ると自由党,改進党の集会が盛んに開かれ,《武蔵野叢誌》が出版されるなど自由民権運動の中心地となり,1920年には府中多磨小作人組合が結成されて三多摩農民運動の指導的役割を果たした。                  北原 進

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【歴】近藤勇の墓所と生家跡(甲州道中08上石原宿)3

上石原宿ではバスから降りて龍源寺で墓参。

近藤勇墓所02

近藤勇こんどういさみ

1834‐68(天保5‐明治1)

幕末の新斤組隊長。武蔵国多摩郡石原村の宮川久次の第3子。天然理心流近藤周助の試衛館で剣法を学び,1849年(嘉永2)その養子となる。63年(文久3)将軍徳川家茂の上洛にあたり幕府が募った浪士隊に同門の土方歳三,沖田総司,永倉新八らと加わった。上洛した浪士隊は洛外壬生村に屯集した。清川八郎らが尊攘派と結んだので幕府から江戸へ帰還を命ぜられた後も京都に残り,京都守護職支配下に属して新斤組を結成。しだいに力をのばして隊長となり,尊攘派の取締りと弾圧にあたる。64年(元治1)6月池田屋事件で名をあげた。以後,洛中洛外の治安維持につとめ,幕臣にもなる。68年(明治1)1月の鳥羽・伏見の戦で幕軍敗退後江戸へ帰り,佐幕軍甲陽鎮撫隊を組織して官軍と甲斐勝沼で戦うが敗走。下総流山で降伏して捕らわれたとき大久保大和と名のるが,官軍に勇であることを見破られ,4月25日に板橋庚申塚の刑場で斬られ,首は京都三条河原に梟された。                    高木 俊輔

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てな訳で、刑死してるので本当に五体満足で埋葬されてるのかどうかは諸説有るようですが。。。

近藤勇墓所03

とりあえず合掌。

寺の入り口には上掲の胸像と天然理心流の碑。

近藤勇墓所01

少し離れたところには生家跡とか道場跡もありました。

近藤勇生家跡00

【歴】内藤新宿(甲州道中 宿場町その1)3

早稲田界隈を根城にしてるのに、ごく近所にあった史跡群を初めて知ったよ。

今の「新宿」が甲州街道第1宿の内藤新宿の発展形だ、ぐらいの知識はもちろんあるけど、結構残ってるんですなぁ。

内藤新宿 ないとうしんじゅく

江戸の北西部,武蔵国豊島郡に設置された甲州道中の宿駅で,江戸周辺の品川(東海道),千住(日光道中),板橋(中山道)とともに四宿と呼ばれた。現在の新宿区新宿1〜3丁目一帯。江戸浅草阿部川町の名主喜兵衛ほか4人の出願によって1698年(元禄11)に置かれた新しい宿駅である。宿はずれの追分(おいわけ)で青梅街道を分岐し,両者の第1宿を兼ねる。江戸日本橋まで2里(8km足らず),西の次の宿へは甲州道中の下高井戸宿まで2里,青梅街道の中野村まで20丁(2km余)である。内藤新宿の設立によって,これまでの上・下高井戸宿および中野村は,第1宿としての機能を失った。宿場が四谷塩町続きの,もと高遠藩内藤氏の屋敷の一部に設けられたので,その名があった。東は四谷大木戸を境とし,西は追分に至る東西9丁10間余(約1km)の宿並みである。設立当初ここに移住した人々は,屋敷を割り当てられると,年貢の上納,伝馬人足づとめ,四谷大木戸から甲州道中国領宿までと,追分から青梅街道高円寺村境までの道の修復を負担することが義務づけられ,その諸費用として表間口1間につき1年に金1分ずつを徴収されることになっていた。宿設立後20年ほどたった1718年(享保3)にいったん廃駅となったが,72年(安永1)に再興された。幕末には宿の街道沿いが残らず家並みとなり,上町,仲町,下町に分かれた。家数は698軒,人数2377人,うち男1172人,女1205人。旅籠屋は24軒で,ほかに本陣1軒,問屋場が1ヵ所あった。常備人馬は25人,25疋である。飯盛女(めしもりおんな)を150人置くことが許されていたが実際はこれを上回り,取締りの対象となったこともある。しかし多くの飯盛女が存在することによって江戸の歓楽地としても繁栄した。この地は江戸へ入る北西の入口になっていたために,甲州,青梅の両道を経由して送られてくる商品がここでも売買され,内藤新宿を中にはさんで東の四谷から西の角筈(つのはず)にかけ,農村の生産物を取り扱う問屋が多く成立した。宿では1772年の再興以来,ここを通過する駄賃付馬に対し,1疋につき銭2文の割合で口銭を徴収していたが,農村からの荷物にもこの口銭を課したので争論になったことがある。 伊藤 好一

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内藤新宿図

高遠藩内藤氏の土地の一部を削って作ったので内藤家の菩提寺がやっぱり中心でしょうか。
 現代の場所としては新宿御苑前駅と厚生年金会館との間ぐらいのエリアです。

内藤新宿01

結構な史跡も残ってるようです。

内藤新宿

内藤新宿02

江戸6地蔵のひとつもココに。

内藤新宿03

内藤家の墓所も観光資源。

ここらになると境目は不思議な感じですな。

内藤新宿04
内藤新宿05

境内にある塩地蔵が一番独特な感じ。

この寺から厚生年金会館の方に出た寺も2カ所ほど回りましたが、恋川春町の墓とかありました。

飯盛り女の投げ込み墓が切ないですな。

内藤新宿07
内藤新宿08

これこそが宿場町の実際の歴史ではあるんだけどね。。。

【歴】四谷大木戸跡など3

バスは内藤新宿(第1の宿)に向かって来たが、その少し手前で見学地一つ。

場所は新宿から四谷に抜けてくるトンネルの出口のところ隣は四谷区民センターです。

四谷大木戸跡と上水端跡04

ここが「江戸御府内」の境界ですな。

四谷大木戸跡と上水端跡01

ここに「四谷大木戸」つまり関所があったと。

あと江戸に上水道を供給していた玉川上水がここで開渠から暗渠、つまり地下に潜る場所だったらしい。

四谷大木戸跡と上水端跡02

こんなところも気にせずに生きてるねぇ。

四谷大木戸跡と上水端跡03

【学】史跡としてのお江戸日本橋4

日常の中では何も気にしてない風景も説明して貰うといろいろドラマがあるもんですな。

橋を挟んで4つの角にはそれぞれ歴史があり、1つを除いて記念碑や解説文が置かれています。

日本橋01
日本橋02
日本橋03

五街道の起点としての歴史がメイン。

江戸時代、魚河岸の発祥の地、要は徳川家康を助けた大阪西成の漁師を呼び寄せて埋め立て地(佃島)と漁業権と販売特権を与えたという歴史、関東大震災で築地に移転するまではここに魚河岸があったと。

日本橋07

その旨記した碑があります。

また別の角、ここだけ解説文も記念碑も無く、ただ交番があるだけですが、

日本橋08

ここは江戸時代、高札場であり、心中の生き残りを晒し者にしたりするための場所だったそうです。
(おまわりさんを撮影すると何か文句言われそう(笑)なので上手いこと死角を撮ってますが)

一つの角だけが近現代の歴史の証。五街道の起点はその後も日本地図の起点であったようです。

日本橋04

東京「市」の時代、市電の邪魔になるというので撤去された起点標識が橋の袂に移されてますが、起点標は道路の真ん中に埋められています。

日本橋05

見に行く人が居るとアブナイので(笑)、起点標識のところにレプリカが展示されています。

日本橋06

今日はここを甲州道中の起点として旅に出る訳です。
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道楽者の自己紹介
るみん
大阪出身。納豆とネギが嫌い。
キュウリもダメ。肉食の大食。
お酒は日本酒を中心に幅広く。
音楽は上々颱風を中心に幅広く。
趣味は旅行と料理。
特技は武芸十八般。
大阪、東京、千葉、茨城を経て、現在はまた東京在住。いい歳。
メッセージ
 ここ4年間ほどブログを休んでいました
m(_ _)mが、本日復活です♪

 通算すると、開設して10年が過ぎました。ここは「酒と食べ物」を柱として、自分の体験と思考を並べてあるサイト「道中道楽」メインBlogです。古い料理屋の家に生まれ育ち、日本中を旅してきていますので、作る側の気持ちと客側の気持ちの両方が判るつもりですし、日本各地の特色などを考え、できるだけ「良いところを探す」ことを心掛けています。

 「酒と食べ物」以外では、芸能や芸術のレポや旅行記、商品モニターなど様々。いずれも人の営み、貴賤高低は無いと考えている男の雑文に過ぎませんが、その中の何かが誰かに少しでも意味があるとしたら幸いに思います。

   2015年8月29日


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