放浪記

2007年11月29日

【思】たしかにまぁ、あれは止めた方が 3

森光子さん座長の「放浪記」

日比谷の芸術座に見に行ったのはずいぶん前、芸術座の最終公演のはずだから2005年初かなぁ。菊田一夫の役が小鹿番だった頃。

森光子と奈良岡朋子とが「がっぷり四つ」って感じの、いい芝居でした。

有名な「でんぐり返し」、一緒に行った母は感心してたけど、自分としては、当時でさえ、むしろ「無理にそんなことしなくてもいいのになぁ」って思った記憶がある。

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森光子さん「でんぐり返し、やめます」…放浪記の発表会見

11月29日19時51分配信 読売新聞

 「でんぐり返し、やめます」――。森光子さん(87)が29日、都内で行われた、舞台「放浪記」(来年1〜3月、東京・日比谷のシアタークリエ)の発表記者会見で、名物となった前転を今後は行わないことを明らかにした。

 「放浪記」は、作家の林芙美子の半生を描いた名作だ。1961年以来、通算1858回上演され、すべて森さんが主演。芙美子が喜びのあまり、前転をする場面は見せ場として人気を集めてきた。

 しかし、来年は地方を含め100回以上の上演を予定しているため、万一のけがなどに備え、制作側が演出の変更を提案。森さんも「寂しく、申し訳ないが、『放浪記』をなるべく長くやるようにというお気持ちと受け止めたい」と受け入れた。

最終更新:11月29日19時51分
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071129-00000513-yom-ent
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「放浪記」45年 上演1800回 森光子名場面

 作家の林芙美子を演じ続けて45年。森光子主演の舞台「放浪記」が今月4日、前人未到の上演1800回を達成した。売り出しと同時にチケット完売となる人気作。名場面を出演者やスタッフの話と共に再現しよう。(多葉田聡)

1幕 本郷の下宿 1923年
 男(原康義)と同居中の芙美子(森)。だが、下宿で男の妻を名乗る京子(奈良岡朋子)と鉢合わせし、別れを決意する。

 東京・日比谷の芸術座から帝国劇場へ移った今回。広い舞台に合わせて装置も大きくなり、下宿にはカーテンがつるされた。芙美子が押し入れに隠れているとも知らず、京子に迫る男がカーテンを閉める、という新演出が加わった。

2幕 カフェ 1926年
 夜はカフェで働きながら詩を書き続ける芙美子。着物にエプロン姿で歌い踊り、横柄な客には威勢良くたんかも切る。

 演出補の本間忠良「『あら、エッサッサァ』と踊る場面は足がよく上がるなと感心する。今回は余計に上がっているんじゃないか」

 同じ従業員役の有森也実「キュッと手を握って下さるタイミングが毎回違う。決まったお芝居じゃないように、いつも新鮮に演技されることに驚かされます」

 自分の不幸な境遇を語りながら、「私には放浪する癖があるの」とつぶやく芙美子。仕事仲間と焼き芋を食べる場面も哀れを誘う。

 森「今はサツマイモも一年中おいしいですが、昔は3月くらいになると水っぽくて。それでも、おいしそうに食べなきゃいけない。いい時代になりました」

3幕 尾道 1927年春
 別の男ともうまく行かず、広島・尾道の実家に戻った芙美子。腹をすかせる行商人親子にかつての自分たちを思い出し、ご飯を食べさせる。

 森と共に初演から出演し続ける青木玲子「初演は行商人の妻役で、(作・演出の)菊田一夫先生に山盛りのご飯を食べさせられました。子供は、みそ汁をかけてガーッと3杯も。(当時は)戦後の食糧難の記憶が残っていて、物も言わず黙々と食べるところでお客さんがボロボロ泣くんです」

4幕 世田谷の家 1927年秋
 東京へ戻った芙美子。自分の原稿をいち早く雑誌に売り込もうと、ライバルとなった京子の原稿を届けるのをわざと遅らせる。

 本間「森さんは京子の原稿を脇に置くにしても、わざと上に別のものを重ねたり、毎回いろいろ工夫していますね」

 青木「最初は5時間ぐらいの芝居でしたが、三木のり平さんの演出で1時間以上短くなった。45分あったこの場面も30分ぐらいに。でも、どこをカットしたのか分からないほど見事な切り方で、雰囲気も全部残っています」

渋谷の木賃宿 1927年冬
 また男と別れ、安宿で暮らす芙美子。ある夜、売春婦の取り締まりがあり、自分も巻き添えに。疑いが晴れた芙美子は喜びの余り、でんぐり返しをする。

 森「最初は3回転していました。ある時、五輪(体操)の床運動を見て、自分のはイモムシみたいだと思い、それからは腕を伸ばして、大きくやるようになりました。芝居よりは上手になったと自負しております」

5幕 落合の家 1949年
  人気作家となった芙美子を、劇作家の菊田一夫らが訪ねる。2年前まで小鹿番が演じ続けた菊田役は、斎藤晴彦が引き継いだ。

 斎藤「ものすごく緊張したが、森さんは相手役に何も注文しないんです。付けひげがとれて、僕が絶句したこともあったのに……」

 森「(別の芝居でも)ひげがとれる方は、よくあるんです。そういうハプニングも楽しい」

 青木「胸を借りるつもりで毎日芝居を変えてみるんですが、全部受け止めて下さる。相手がどう来ようが、何食わぬ顔で。普通なら年齢と共に枯れたりするんですが、いつまでもみずみずしくて、本当に、あきれるほど変わりませんね」



 帝劇公演は28日まで。来月の名古屋公演を終えると、通算1858回となる。

成長続ける すごい

 森の演技や作品の魅力について、1961年の初演から見続けている演芸・演劇評論家の矢野誠一さんに聞いた。

 「初演時、森さんの起用は大抜てきだった。大阪では達者な芸人として映画でも活躍していたが、東京では厳しい見方もあった。だが、若いのに老け役に無理がなく、東京の芝居もできるなと感じた」

 「ラストで、人気作家になった芙美子が『私を成り上がり者だと思う?』と言うせりふは、当初は意識し過ぎる面もあったが、のり平演出になってから枯れた感じになった」

 「すごいと思うのは、森さんが『放浪記』と共に成長し、舞台としての総合点が右肩上がりを続けていること。杉村春子さんの『女の一生』でさえ年齢的に難しい時期があった。でも『放浪記』にはそれがない。脇役にも、それぞれ演技のしどころがある。まさに、みんなの『放浪記』だ」

 「自分と一緒に年を取って行くのは、この芝居だけ。舞台の成長と共に、批評家としての成長を試される真剣勝負の場でもある」

(2006年9月22日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/stage/theater/20060922et13.htm
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この「喜びのあまり、でんぐり返りする」という演出、というか林芙美子の時代のエピソード、今の時代には説得力が無くなっちゃってるな、と思う。

女性がそういうことをするのが「はしたない」という観念が強かった時代、それを背景にしてるからこその「喜びのあまり」なんだけど、今じゃ「変わった表現をする人だな」という片付けられ方をしかねない。

「個性」の時代というと聞こえはいいが、要は「社会」とか「時代」とか「世代」とかが壊れて共同幻想が曖昧で操作されやすい流動的なものでしか無い時代。

形式を乗り越える苦労が無い代わりに、形式がその中に抱えてくれているが故に人から人へ伝わり共有され、人と人との連帯感を生み出したり、先人の教訓を活かしたり出来る仕組みが失われ〜「つつある」、のか、「てしまった」のかは迷うところだけど〜、何だか世の中が変になってる気がしてる。

たしかに「男はこうあるべきだ」「女はこうしろ」「大人なんだから」「子供は子供らしく」みたいな縛りは個人にとっても不自由なんだろうけど、むしろ男にも服飾品を売りたかったり、子供にも化粧品を売りたかったり、なんて消費社会の「売り手側」にとって何よりの障害だから、うまいこと情報操作されたのが「個性」偏重なんじゃないか。

「チャンネルは親父が決める」ってんじゃテレビは「一家に一台」以上売れないものね。

「大人じゃなきゃできないこと」が有るから、子供は「一人前に」成長しようとし、「男じゃなきゃできないこと」が有るから、少年は「男らしく」振る舞おうとし、「女じゃなきゃでいないこと」が有るから、少女は「女らしく」なろうとする。

そうでなきゃ子供で居る方が楽だろうし(中流家庭以上ならなんだろうけど)、卑怯未練な男だろうと粗雑な女だろうと何の矯正も受けずに生きられて楽だろうし。

ただね、この「ラク」が行動原理ってのは、ウーパールーパーみたいな幼態成熟に思えるから、どうも人類の未来が先細りする気がする訳で。

「今ある姿」と「有るべき姿」のギャップを判って、それと向き合い、乗り越えるなり壁をぶちこわすなり、というのが霊長類ってもんじゃないのかなぁ、と。

何だか今じゃ失われつつあるように思うけど、こういう仕組みそのものが「文化」なんじゃなかろうか。

大人じゃなくてもバイトして金を稼げば、大人じゃなくても何でも買える(現実問題、酒や煙草が買えないものじゃないでしょう)、そういう世の中で子供が大人に憧れる必要は生じないだろうし。

昔の子供は悪心起こしてタバコを買いたきゃ、タバコ屋行って「お父さんのお遣いで」なんて言い訳して、便所の中や校舎の裏でタバコ吸ってた訳で、今のように手軽に入手できる上で歩きタバコしてる高校生がウロウロしてる時代というのは、なんとなく落ち着きが悪い気がしてる。

何処かを一箇所直して治るようなものでは無いだろうけどね、既に。


ハナシは大きくなっちゃったけど、、、ともかく、


「放浪記」は、そういう不自由な時代背景で、「女」が自己を表現し、社会に認められる、喜びのあまり「でんぐり返り」までする、その突き抜けた感じが値打ちだと思うのだけどね。友達を裏切る生臭ささも有りながらも救われるのは主人公の無邪気さや一途さであり、そのカタチが「でんぐり返り」なんだと思う。

背景を失った今となっては「ご高齢にも関わらず」なんて晩年のジャイアント馬場じゃあるまいに、なんて扱い方ばかりされてるように思うから、いっそ「でんぐり返り」を止める決断というのは正しいように思えます。

ただ、「放浪記」の持つ生臭さをどうやって消すのか、それが難しそうだな、とも少しだけ懸念されますが。

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放浪記(映画版)
放浪記
林芙美子 放浪記アルバム
女優 森光子―大スターその光と影
森光子―汗と涙のカーテンコール
シャンテ 森光子が詠む美空ひばりの詩(通常版)
シャンテ 森光子が詠む美空ひばりの詩(特装版)


ruminn_master at 2007年11月29日 21:35 【思】たしかにまぁ、あれは止めた方がコメント(0)トラックバック(2)  このエントリーをはてなブックマークに追加
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