相撲

2007年08月23日

【思】さて、2年が経ちました。 3

2年前の今日から始まりましたこのBlog、明日から3年目に突入です。

読んで下さっている皆様、まことに有り難う御座います。

m(__)m Thanks!

結構コンスタントに他人様の目に触れているようだし、ここを見て友人の店に足を運んで下さった方が居たり、移転した馴染みの店の行く末が判ったり、と望み通りのレベルを越えた行幸などもアレコレあって、かなり楽しんで続けて来られております。


1周年のご挨拶では写真というモノへの思いを書いてました。

当時はネットへの新しい参加形態からまた新たな世界の広がりを得たことなどをサイドバーのメッセージに述べたりもしており、そういう時期だったのだな、と思います。

【1周年のメッセージ】
 開設して「ようやく」なのか「あっというま」なのか、ともかく1年が過ぎました。
ここが「道中道楽」メインBlogです。
 ここの柱は「酒と食べ物」ですが、何でもかんでも書いていますね。いわば体験と思考を時系列に沿って並べてあるサイトです。
 Mixiでの新たな出会いのおかげで「社会科見学」という体験・経験も増えました。そういう視点でモノを見始めたとき、また新たに世界が広がってきたような気がしています。
 開設当時から考えると写真展でも開いているかのように写真も多いです。
(長々とした言い訳については、よろしければ1周年のご挨拶をご覧下さいませ)

 まだまだ試行錯誤中です。
まだいろいろ考えています。
   2006年8月23日


こうして見るとグルメサイトの端くれのつもりのBlogでも、あらためて自分自身の日記としての側面にも気付かされますね。

日記って思索や創造にはとても大事だと思います。

日記の魔力―この習慣が人生を劇的に変える
答えが見つかるまで考え抜く技術

上掲の書籍は京都駿台の名物英語講師の著作で、数年前に懐かしくて手にした本でしたが、あらためて「この時代」での日記の効用など考えさせられたりもしました。

ルーティンだけの日常ではないならば、受けた刺激、思考の過程、他者との関わりなどを時系列で整理した膨大な個人データベースが「日記」な訳です。

Blogでは他人様の目に触れることを前提に整理した内容しか書けませんが、それでもあらためて読んでみれば「そのときの思い」や「そのときの行動」は記録されているものだな、と思うし、細かい記憶も喚起され蘇って来るものではあります。


最近の思い・・・考えていること・・・

そうですねぇ。。。


朝青龍、やっぱりあの男自体がヘンです。

謹慎食らって心の病で逃げられるなら、停学食らった高校生はみんなしばらく部屋に引き籠もって精神科に診断してもらえばいい。

昔ビートたけしがテレビで言って居た記憶だけど、「人を殺したら死刑でも、その死体の横でチンチン出してヘラヘラ笑ってたら助かる」っていうのと同じに思えるハナシ。

心の弱さに寛大過ぎるのも事物の本質を見誤るように思われます。

「勉強さえ出来れば」で甘やかされて育った子供がワガママの果てに他人様を傷付けて、それを非難されて停学を食らったら「なんで急にみんなが冷たくするんだ」って視点でしかモノが見えず、引き籠もりになって、果ては神経科に通うようになって・・・・って、だからといって貴方は彼を許すのですか?と。

処分は処分、治療は治療、悪いことは悪い、その償いはキチンとさせなければ、そもそもの処分の正当性も権威も失われて、今後その制度は機能しなくなる。

今回の件、ウヤムヤに終わるとしたらそれこそ大相撲の命取りになるでしょう。


 朝青龍について好印象を述べる人々は有名人だったり角界のエライ人だったりで、それは騒音や危険行為で社会に迷惑を掛けまくる暴走族の少年が自らの先輩や仕事先にだけは礼儀正しいなんてのと一緒で、自分にとって利害関係の有る範囲、自分にとって楽しい範囲だけの気遣い、そこでの評価に過ぎないと思います。
 今回のモノゴトの発端は「単なる興業先」と軽視した一般観客への裏切り行為であり、モンゴルで「子供達のために」「頼まれて」サッカーに出たことがまるで美談のように扱われたりの向きもありますが、それは他方で軽視・無視された「日本の巡業先の子供達」を忘れた発言でしょう。
 巡業相撲は本場所ではないにせよ勝負の世界、心も体も使うラクでは無い「仕事」でありながら、本場所と較べれば「実入りが少ない」。
 彼はモンゴルでは英雄であり大事に扱われるでしょうから「自分にとって楽しい場所」あるいは「現在・あるいは将来モンゴルで営むビジネスにとって利益のある活動」を選択したのが正直なところではないのでしょうか。

 そもそも興業ビジネス、ショービジネスでは、観客は興業主にとっては「大事なお客さん」でも、出演者にとってお金を払う実際のお客さんは興業主であって一般の観客では無い、というのが見えにくいけど突き詰めたところにある正体かと思います。
 出演者の心の中には観客など居なくてもビジネスとしては問題はない。勘違いしたタレントさんなら「どうでもいい存在」だと思っているでしょう。
 それを観客の方は、サイン一葉、握手や目線などといった微かな証左を後生大事に育てて「大事な存在」であるとの幻想にしがみつき、タレントさんサイドはそれを利用して金銭に換えるだけの欺瞞。ある意味「お客様は神様です」というフィクションを失ってしまえばそうした「身も蓋もない」現実しか残りません。
 その昔、馴染みのバンド上々颱風のライブ活動をフリーライターがルポした上々颱風主義を読んで、アーティスト、事務所、関係する業界人、そして興業主以外は登場しない、あまりにも見事に1行たりとも一般の観客が登場しないことにかなり笑えた記憶があります。あまりにも「身も蓋もない」(笑)。この本はあまりにも正直で、「どうでもいい」存在なんでしょう、ファンなんて人種は、って読めます。
 タレントさんの「関わるのが面倒」という気持ちも判りますが、「一線を引きたがる」人々に深い反感を持つ自分が居ます。

 このBlogでたくさん扱う飲食店業界でも同じような現象があります。
 テレビや雑誌で絶賛されて居るからと言って貴方がその店を訪問した時に同じレベルのサービスを受けられるとは限らない。同じメニューであっても同じレベルの料理が提供されるとは限らない。
 有名人やマスコミが大好きな飲食店さんというのは少なくない。「そのときだけ」特別なことをする店というのも少なくないのが現実です。もちろん宣伝という気持ちが判らなくは無いけれど、その料理人なり店主が相手にしているのは「店に来てお金を落としてくれる(一般的・抽象的な)無数に存在するお客さん」であって、「目の前に居る個別のお客さん」ではない。
 良心的な料理人や職人気質の頑固ジジィなんて方だけが「目の前のお客」を大事にするものだと経験上思います。テレビや雑誌で紹介されたことを自慢気にいつまでも話したり壁中サイン色紙だらけなんて店は用心して掛かった方がいい。
 テレビでいかに美味そうにしていたからといって過大な期待はしない方が精神衛生上も経済上も「身のため」です。貴方が有名人であったり常連客になるまで通い続ける根性の持ち主で無い場合。
 老舗と呼ばれる店で嫌な思いをする人が多いのもこの辺りの「身も蓋もない」現実に直面させられるからに他なりません。
 マスコミ登場の店はまず疑って掛かる自分が居ます。
恨ミシュラン (上) (朝日文庫)
恨ミシュラン (下) (朝日文庫)

 また、年中旅行してる身としては観光地でも同じような現象に出会います。
 ブームの観光地、大ブームの去った観光地に行くと商店でかなりぞんざいに扱って貰えます。それは「この客が2度と来なくても他にやってくる客は幾らでもいる」という思い上がりなんだと思われます。
 「お金を落とさない奴は客じゃない」との視点はまるで正しいような気もしますが、よくよく考えると「(その日は何も買い物しないとしても)今度来た時に買ってくれるかもしれないから」全てのお客さんを大事にしようと言う本来の「商売の基本」みたいな部分が欠落しています。
 個人的には北海道の有名観光地の土産物屋や寿司屋でかなり頻繁に感じさせられます。

ここで問題にしている精神性、「身を尽くす」誠意や潔さみたいな部分は、例えば「一所懸命」、例えば「一期一会」などと言う言葉で、古来から「大事なこと」とされて来ていますが、それは反面において「意識的に実践しなければ難しいこと」だとの理解が有るということでもあるでしょう。

だからといって「欲望や流れに身を任す」のはサル並み、いや、サルにも最低限の社会性、「群れの論理」ぐらいは有るので、サル以下

人間ならば共同幻想、フィクションの共有が必要ですが、自分にとって「用事の有る人」「メリットの有る人」「自分が楽しい人」だけと共有すればいい、という態度は、せいぜいがサル並みか。

ただ、こうした「幼稚な人間」というのは現実には多いのでしょうから、大昔から「今の若いモンは・・」とか言われてるのも単にカテゴリー的に「目に付く」だけのことでしょうし、「オバタリアン」なんて言葉が一時期流行って一定の定着を見たことを考えても、今では他のカテゴリーにも一般化していると言えると思います。
 実際の処、利己的である人を指して「人間臭い」とか「ある意味極めて人間的」なんて言ったりもしますから。

しかし、その現象は退行、退化以外の何ものでも無いし、本能に従うことが種の維持に役立つという機能を失った人間としてはサルにも劣る存在にしか至れない。種としては「滅びの道」の途上な気がします。

まぁ、「人類皆兄弟」なんてのはフィクションが過ぎる感じもしますが、「袖擦り合うも多生の縁」ぐらいの心豊かな共存する意思みたいなレベルであってようやくサル以上になれるのか。

そんなこんなもありましてつくづく思うこと、
サルよりマシなつもりの人間ならば、
「身も蓋もない」ってのは反省して改めるべきだと。


さて朝青龍のハナシでしたか。


大前提、相撲「道」のはず。

それは野見宿禰と当麻蹴速の時代から有る、とっても古い、日本古来の、「道」なんて言い出す以前の武術の原型みたいなもの、それを出来る限り古来の形式に近付けて「伝統」を残そうというのが今の大相撲じゃないかと思います。

だとすると師匠を蔑ろ(ないがしろ)にする態度が解せない。
許せない。
強く言えない師匠もオカシイ。
 師匠が破門と言えば破門、謹慎と言えば問答無用、理不尽だろうと何であろうと謹慎なのが当然。むしろ自分から反省を進んで示すように努力するぐらいが普通の世界なんですから。

残念ながら今の時代には合わないと言われようとも、「師匠は絶対」というフィクションに乗っからないと動かないように出来ているのが「伝統」という世界。

ただこれを壊しているのは他ならぬ大相撲自体では有るのでしょう。

「横綱」一人居れば「部屋」は安泰、それはビジネスとしての側面。
強い「横綱」が一日も早く土俵に上がってくれた方が興行的にも盛り上がる、それもビジネスとしての側面。

「横綱」にしてみれば「俺が(親方を、部屋を、相撲界の有象無象を)食わしてやってる」ぐらいの気がしても無理はないのかもしれません。

周囲も、それがゆえに今まで放置して何も言えなかったツケを払わされているのでしょう。

ここまで来たら、謹慎処分をひとまず停止してモンゴルでもどこでも治療させ、治療の過程で「何が悪いコトだったのか」を十分に理解させ、理解・反省が出来たならあらためて日本の相撲界に復帰させるにあたって残余の謹慎期間を全うさせるべきだし、理解・反省ができないならそのまま引退させる、そうあるべきじゃないかと思います。

どうやら「病気だからしょうがない」と「好きなように」させて、こうしたゴタゴタのウチにウヤムヤに謹慎期間を過ぎて、なんてことになるような流れですけど。

こうして精神性、潔さ、キレイゴトを捨て去ってしまうと、大相撲は、武「道」の顔をしながらも「勝てばいい」スポーツ、それも日本の他のスポーツではあまり大っぴらに許されてない賞金スポーツであるという内実、大相撲の正体ともいうべき部分しか残らなくなるように思います。

もし日本古来の伝統の相撲道に「本来有るべき」精神を師匠が弟子に伝えていないとすれば(昨今の動きを見ている限り、チャンと伝えているようには思えませんが)、体格や体能の優れた外国人さんが「賞金スポーツとしての純粋」な気持ちで一生懸命に「強くなるように」励んでいることを非難できないでしょう。

柔術から出た柔道がオリンピック競技にまでなって世界的に認知されたのはいいけれど、その反面で「受け身を取るとポイントを相手に取られるから」と受け身も取れずに無理して骨折してしまうという本末転倒で滑稽な事実が想起されます。

それでも柔道選手は強いです。横綱だって強い。

現実は「そんなもん」です。

「努力に勝る才能無し」なんて言いますが、世界は広いので、世界中から才能を探してくるとか、世界と競う、ってなことになると、ちょっとやそっとの努力では「小よく大を制す」とはいきません。

でも・・・

武術としては「才能に恵まれてないモノでも努力で越える」方法論で無ければなりません。

武道としては「勝てばいい、ではなく精神的な高みに至る」実践で無ければならないんじゃないでしょうか。

市井の一武術家としてはそんな風に考えている昨今です。


サルよりマシな人間で在るための日常でありたいと思います。







ruminn_master at 2007年08月23日 23:23 【思】さて、2年が経ちました。コメント(4)トラックバック(0)  このエントリーをはてなブックマークに追加
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