赤穂浪士

2007年12月12日

【旅】忠臣蔵を訪ねて(大石内蔵助の巻) 4

午後の部は「極月半ばの14日」って討ち入りの日から始まります。


  1. 吉良邸跡


  2. 両国に降りると時期が時期だけに街中に「それらしき」ポスターが貼られていました。

    01吉良邸01

    吉良邸跡、本当はもっともっと広大な敷地だったのが歴史の中で跡形も無くなりかけたのを危惧した有志が、一部を買い取って記念公園にし、東京都に寄付した場所です。

    01吉良邸02
    01吉良邸03

    本懐を遂げ、吉良上野介の首を洗った井戸だとか。

    01吉良邸04

    討ち入りの趣旨を書いた書状を何通か持ち、一通はここに貼って帰ったそうな。

    01吉良邸05(口上書)01

    01吉良邸05(口上書)02

    01吉良邸05(口上書)03


  3. 回向院


  4. 02回向院01

    歩いて5分程の場所に有る大きなお寺さん、回向院

    鼠小僧の墓が有るので有名ですが、
    討ち入りの後、赤穂浪士達が休息を求めたところ開門しなかったとか。

    それは難を避けるためだったに違いない、という憶測と、
    単に決められた開門時間の前だったからだ、という言い訳がぶつかっています。

  5. 赤穂浪士休息の地


  6. 回向院で休ませて貰えなかった赤穂浪士は、疲れた身体を引きずって、予想される上杉方の追っ手を避けつつ隅田川沿いを泉岳寺に向かいます。

    途中、大高源吾の俳句仲間であった味噌屋の乳熊屋が甘酒を提供して休息させてくれたとか。

    03ちくま屋01
    03ちくま屋02

    真冬の早朝だものねぇ、甘酒は美味かっただろうなぁ。

    そして、とっても嬉しかっただろうねぇ。

    ちょうどイベントを控えた日でナイスタイミングだったのか、今もあるちくま味噌さんが甘酒を振る舞って下さいました。

    03ちくま屋03
    03ちくま屋04

    (別の見方をすれば「試飲販売」ですが(笑))

    何となく「わかったような」気分になれました。

  7. 浅野家上屋敷跡


  8. 浅野家は「お取り潰し」になっているので既に別家が入って居ましたが、浅野家の氏神様に報告しようというので浅野家上屋敷に立ち寄ったのだとか。

    今の聖路加看護学校の脇の道路に石碑が建っていました。

    04浅野家上屋敷跡01
    04浅野家上屋敷跡02


  9. 大目付仙石伯耆守への自首


  10. 討ち入りの後、浅野内匠頭の墓前で切腹するつもりの四十七士でしたが、理の有ることというのなら、それを申し開きもしないで沙汰を待たずに勝手に自害してはただの大罪人になってしまうという進言を入れて、大石内蔵助は2人を大目付の仙石伯耆守の屋敷へ自首のために向かわせています。

    その屋敷跡の辺り、今は日本消防協会の施設になっており、その1階ホールに記念碑らしきものが建てられていました。

    05大目付への自首01
    05大目付への自首02
    05大目付への自首03

    この折にも前掲の書状を携えて行っている訳です。

    決して御上に楯突くつもりじゃないと。
    要は「喧嘩両成敗」じゃないのか、と。

  11. 浅野内匠頭墓前(泉岳寺)


  12. そして四十七士は主君の墓前に仇敵の首級を備え、本懐の報告をした訳です。

    その地が泉岳寺

    06泉岳寺01
    06泉岳寺02
    06泉岳寺04

    そして親兄弟が同じ場所にならないようにされて、4つの藩邸に分けられて幕府の沙汰を待つ訳です。

    罪人となれば打ち首、
    武士の本懐となれば切腹が「許される」、
    現代人からするとどっちにしろ死罪なんですが、
    それが「武士」というものなんでしょう。

  13. 判決そして切腹


  14. そして「望みが叶って」武士らしく切腹が「許されました」

    07判決文00

    大石主税らの切腹地は松平伊予守の屋敷、今はイタリア大使館になってて中に入れません。

    08大石主税ら切腹地(松平伊予守)00

    大石内蔵助らの切腹地は細川越中守の下屋敷、囲われて奉られてありました。

    09大石内蔵助ら切腹地(細川邸跡)00


  15. そして墓所


  16. そして四十七士もまた浅野内匠頭と共に泉岳寺に納められています。
    (厳密には何人か抜けてますが)

    06泉岳寺05
    06泉岳寺06

    もちろん江戸時代ですので家族諸共に罪人扱いなんですが、「武士」としての事件、女は許されたそうですし、男の子も15歳になっていれば遠島、なっていなければ15歳になってから遠島ということで、その前に出家して還俗するとかして結局血筋は残り、直系の子孫も生きているということで、こうして供養の煙が絶えることは無いようです。
     他方の吉良上野介の子孫は絶えたそうで、幕府の「お家断絶」という形式とは逆の結末、なかなか皮肉なハナシですな。

    10細川邸跡の椎の巨木00



年末にまた忠臣蔵の歌舞伎を見るんですよね。

少し実感が伴うので一層楽しめそうな予感がします。

ruminn_master at 2007年12月12日 17:14 【旅】忠臣蔵を訪ねて(大石内蔵助の巻)コメント(4)トラックバック(1)  このエントリーをはてなブックマークに追加
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