2008年10月24日
【楽】狂言「二人袴」(大蔵流山本家)
時々は薪能とか見るので狂言も何度か見てるし、単純に「昔の喜劇」ぐらいの「面白いもの」と考えていた。
今日のチケットは親がイベント自体を見つけて取ってくれたのだが、詳細は演者も演目も全く聞いていなかった。
ただ「狂言を解説付きで見に行く」という頭で、先日図書館でたまたま「狂言のすすめ」という本を見つけて読んだら予想以上に深いものであることが判明。

狂言のすすめ
この著者を山本東次郎氏という。昭和12年生まれ。狂言方大蔵流・三世山本東次郎長男、現山本東次郎家四世。平成10年紫綬褒章受章。
さて
雨模様の本日の会場は杉並能楽堂。
営団丸ノ内線の中野富士見町駅から徒歩10分弱。外観は住宅街の真ん中の古い普通の住居だが、看板と由緒書でようやくそこと知れる。

その反対側の門柱を見たら「山本東次郎」って・・・
読んだばかりの著者の、興味を掻き立てられた狂言方の狂言を見ることが出来る好機であった次第。
お宅の中に案内されると古い能舞台(100年近いそうな)と客席を大きな屋根の中に抱える感じ。



本日のイベントはただ観劇するだけではないのだけど詳細は別記することにして、まずは狂言の内容から。
「二人袴」
・シテ(親) :山本東次郎
・アド(舅) :山本則俊(現東次郎の弟)
・アド(太郎冠者):山本則重(則俊長男)
・アド(婿) :山本則秀(則俊次男)
(参考)
・労音東葛センター狂言演目紹介
・狂言作品のほほん解説
・(参 考) 別 紙 <番組解説> 大蔵流狂言「二人 袴 」pdf
正確な、あるいは公式の内容は上記リンクに任せるとして、ここでは自分なりに大雑把にまとめると・・・
女の実家への挨拶を後回しにして嫁に貰ってしまった男が自分の親に連れられて舅へ挨拶に来た日の出来事。
現代でも珍しいことではないが、昔は「足入れ婚」と呼ばれた正式な婚姻形式のひとつ、つまり試験婚が先行し、正式に嫁に貰うならば遅滞なく女の実家へ挨拶に行かなければならないという段取り。その挨拶を「婿入り」と呼ぶ。そしてそれ自体は何ら悪いことでも気が退けることでもないのだが、この婿殿はどうやら少々大人になりきれてない御仁で、延ばし延ばしになっていたらしい(今日の演出には無かったが懐妊してからの挨拶となった頃合いらしい)し、父親に連れられて渋々と訪れているような有様。
それだけなら現代でも普通に有りそうな(現代日本ならさしずめ母親同伴なんだろうか)ハナシで終わるのだが、その昔の正装を象徴するところの「袴」、コレを付けずして舅の面前に出るのはますます気が退けるところに袴の用意は1本しかない。そこで息子だけ、親が来てるのがバレたら親だけ、両方顔出せと言われれば・・・
1本の袴で何とか誤魔化そうとしたものの婚礼の儀の進む内に。。。
オチまで書くのは無粋なので最後は省くけど、まぁそんなハナシ。
落語にも幾つかこれを変形したのがありますな。
大家に呼ばれた、祝いの席に呼ばれた、遊郭に連れて行って貰う、そのために「羽織を着て行かなきゃならない」となるのだけど、貧乏長屋にはたった1枚しか羽織が無い。さてとっかえひっかえ・・・
落語はより極端に誇張するので人数も多いしドタバタ劇になるのだけど、狂言のスタンスは全く違うことが今回初めて判った次第。
(といっても狂言には和泉流と大蔵流があり、その各流派にも諸家があるので、あくまでもここでいう「狂言」は今回勉強した大蔵流山本東次郎家の考え方、「武家の狂言」であり、「山本東次郎が追究する狂言」を前提としています。意見に個人差があるのは世の常だし、違うからこその諸流諸家ですから、異論については悪しからずご了承下さいm(__)m Sorry!)
たとえば落語の与太郎というのは「ありえない」レベルの奇人変人・大馬鹿野郎だったりするのだけど、狂言の世界にそんな奴は居ないと。
どうやら極端や過剰を嫌った表現に留めることで、時代も地域も越えた全ての人の中にある愚かさや人間の業みたいな部分に気付かせようと。
表現を極端にしてしまうと観客にとっては「対岸の火事」、つまり身に染みない訳です。
世の犯罪報道が犯人の異常性や生育環境の特異性などをやたらと強調するのも何とか「対岸の火事」にして「安心したい」人の心の表れのように思います。
落語も「業の肯定」だとは立川談志師匠の科白ですが、ある意味落語の世界はだからこそに観客は気楽に笑ってられるのかも知れません。
しかし狂言はそういう「嘲笑う」態度を許さないもののようです。
狂言の根本的な主張、それは
「人間とは一なるもの」
だそう。
つまり誰の内にでも有るような見栄や意地、付かなくても良いような下らない嘘、そんなことを抑えた表現、様式化、抽象化された表現を通して観客に「気付かそう」としているのだと。
まるで能舞台の休憩時間、テレビのCMタイムのように巷間言われ書かれる狂言だったりする訳ですが、どうやら一筋縄ではいかないようです。
今回の「二人袴」にしても、
・さっさと片付けなきゃならない用事を後回し
・大したことじゃないけど何だか自信が持てない
・何となく心細いから誰かに付いてきてもらう
・体裁を整えなきゃと思って嘘をついてしまう
・小さな嘘を誤魔化すためにさらに嘘を付いてしまう
・本当のことが言い出せない
なんてことは600年前に限らず現代でも、そしておそらく日本に限らず、何処でも誰にでも有るような、人間「らしい」姿かもと思います。
そういう見ている者の内側からの「気付き」を待とうという姿勢、「所詮同じ人間」、各自の内面からのものだからこその普遍性・一般性を求めて表現する側の表現を抽象的に削ぎ落としていった大蔵流山本東次郎家、この対極には表現を写実的に直接的に、「表現者の側からメッセージを伝える」工夫を重ねる方向性もあり、そういう狂言もあるようです。
その対比も意識して見てみたいですな。
ただ伝統古武術なんてものを長年やってる身として思うことは、昔の教え方というのは抽象的で「気付き」を待ってるんですね、弟子の。
ところが現代人は「ハッキリ言ってくれないと判らない。面白くない。それならもっと楽しいことをヤル」となるようです。
今は「昔ながらのやり方」で若い人に伝えることが難しくなっていると思います。
家伝だからこそ、伝承としてはこれからも守れるかも知れません。実際今日の舞台にも1977年生まれの後継者達が上がって居りました。
ただ表現の受け手のレベルは確実に落ちているように思います。
テレビは人に深い想像力を求めません。予定された反応を期待されたレベルでする大衆だけを消費社会は必要とするのですから。
そして人は受け身に慣れ過ぎて、内面から湧き上がってくる本来なら共感しうる感情を対話で共感に築きあげていく能力は低下してるようです。
抽象的表現は判りにくいと避けられるか、勝手な曲解を留める方途を持てないままに個々に消費されてしまうか。いずれにしても現代で「ウケる」ことは難しそうです。
家訓が「守って滅びよ」だそうです。
媚びて本質を失うよりは孤高に滅びよということでしょうか。
難しいとは思いますが、「今の若いモンは・・」というセリフは大昔から変わらず言われ続けています。おそらく時代は巡り巡るように思います。頑張って欲しいという気がしました。
そして、もしかして客の感想として一番肝心なのかも知れませんが、今日の狂言、芝居としてとても面白かったです。
この文章は、本を読んだ上で実際に表現を見、解説して頂いた上での思索です。

狂言のすすめ
自分としてはとても有意義な経験でした。
今日のチケットは親がイベント自体を見つけて取ってくれたのだが、詳細は演者も演目も全く聞いていなかった。
ただ「狂言を解説付きで見に行く」という頭で、先日図書館でたまたま「狂言のすすめ」という本を見つけて読んだら予想以上に深いものであることが判明。

狂言のすすめ
この著者を山本東次郎氏という。昭和12年生まれ。狂言方大蔵流・三世山本東次郎長男、現山本東次郎家四世。平成10年紫綬褒章受章。
さて
雨模様の本日の会場は杉並能楽堂。
営団丸ノ内線の中野富士見町駅から徒歩10分弱。外観は住宅街の真ん中の古い普通の住居だが、看板と由緒書でようやくそこと知れる。

その反対側の門柱を見たら「山本東次郎」って・・・
読んだばかりの著者の、興味を掻き立てられた狂言方の狂言を見ることが出来る好機であった次第。
お宅の中に案内されると古い能舞台(100年近いそうな)と客席を大きな屋根の中に抱える感じ。



本日のイベントはただ観劇するだけではないのだけど詳細は別記することにして、まずは狂言の内容から。
「二人袴」
・シテ(親) :山本東次郎
・アド(舅) :山本則俊(現東次郎の弟)
・アド(太郎冠者):山本則重(則俊長男)
・アド(婿) :山本則秀(則俊次男)
(参考)
・労音東葛センター狂言演目紹介
・狂言作品のほほん解説
・(参 考) 別 紙 <番組解説> 大蔵流狂言「二人 袴 」pdf
正確な、あるいは公式の内容は上記リンクに任せるとして、ここでは自分なりに大雑把にまとめると・・・
女の実家への挨拶を後回しにして嫁に貰ってしまった男が自分の親に連れられて舅へ挨拶に来た日の出来事。
現代でも珍しいことではないが、昔は「足入れ婚」と呼ばれた正式な婚姻形式のひとつ、つまり試験婚が先行し、正式に嫁に貰うならば遅滞なく女の実家へ挨拶に行かなければならないという段取り。その挨拶を「婿入り」と呼ぶ。そしてそれ自体は何ら悪いことでも気が退けることでもないのだが、この婿殿はどうやら少々大人になりきれてない御仁で、延ばし延ばしになっていたらしい(今日の演出には無かったが懐妊してからの挨拶となった頃合いらしい)し、父親に連れられて渋々と訪れているような有様。
それだけなら現代でも普通に有りそうな(現代日本ならさしずめ母親同伴なんだろうか)ハナシで終わるのだが、その昔の正装を象徴するところの「袴」、コレを付けずして舅の面前に出るのはますます気が退けるところに袴の用意は1本しかない。そこで息子だけ、親が来てるのがバレたら親だけ、両方顔出せと言われれば・・・
1本の袴で何とか誤魔化そうとしたものの婚礼の儀の進む内に。。。
オチまで書くのは無粋なので最後は省くけど、まぁそんなハナシ。
落語にも幾つかこれを変形したのがありますな。
大家に呼ばれた、祝いの席に呼ばれた、遊郭に連れて行って貰う、そのために「羽織を着て行かなきゃならない」となるのだけど、貧乏長屋にはたった1枚しか羽織が無い。さてとっかえひっかえ・・・
落語はより極端に誇張するので人数も多いしドタバタ劇になるのだけど、狂言のスタンスは全く違うことが今回初めて判った次第。
(といっても狂言には和泉流と大蔵流があり、その各流派にも諸家があるので、あくまでもここでいう「狂言」は今回勉強した大蔵流山本東次郎家の考え方、「武家の狂言」であり、「山本東次郎が追究する狂言」を前提としています。意見に個人差があるのは世の常だし、違うからこその諸流諸家ですから、異論については悪しからずご了承下さいm(__)m Sorry!)
たとえば落語の与太郎というのは「ありえない」レベルの奇人変人・大馬鹿野郎だったりするのだけど、狂言の世界にそんな奴は居ないと。
どうやら極端や過剰を嫌った表現に留めることで、時代も地域も越えた全ての人の中にある愚かさや人間の業みたいな部分に気付かせようと。
表現を極端にしてしまうと観客にとっては「対岸の火事」、つまり身に染みない訳です。
世の犯罪報道が犯人の異常性や生育環境の特異性などをやたらと強調するのも何とか「対岸の火事」にして「安心したい」人の心の表れのように思います。
落語も「業の肯定」だとは立川談志師匠の科白ですが、ある意味落語の世界はだからこそに観客は気楽に笑ってられるのかも知れません。
しかし狂言はそういう「嘲笑う」態度を許さないもののようです。
狂言の根本的な主張、それは
「人間とは一なるもの」
だそう。
つまり誰の内にでも有るような見栄や意地、付かなくても良いような下らない嘘、そんなことを抑えた表現、様式化、抽象化された表現を通して観客に「気付かそう」としているのだと。
まるで能舞台の休憩時間、テレビのCMタイムのように巷間言われ書かれる狂言だったりする訳ですが、どうやら一筋縄ではいかないようです。
今回の「二人袴」にしても、
・さっさと片付けなきゃならない用事を後回し
・大したことじゃないけど何だか自信が持てない
・何となく心細いから誰かに付いてきてもらう
・体裁を整えなきゃと思って嘘をついてしまう
・小さな嘘を誤魔化すためにさらに嘘を付いてしまう
・本当のことが言い出せない
なんてことは600年前に限らず現代でも、そしておそらく日本に限らず、何処でも誰にでも有るような、人間「らしい」姿かもと思います。
そういう見ている者の内側からの「気付き」を待とうという姿勢、「所詮同じ人間」、各自の内面からのものだからこその普遍性・一般性を求めて表現する側の表現を抽象的に削ぎ落としていった大蔵流山本東次郎家、この対極には表現を写実的に直接的に、「表現者の側からメッセージを伝える」工夫を重ねる方向性もあり、そういう狂言もあるようです。
その対比も意識して見てみたいですな。
ただ伝統古武術なんてものを長年やってる身として思うことは、昔の教え方というのは抽象的で「気付き」を待ってるんですね、弟子の。
ところが現代人は「ハッキリ言ってくれないと判らない。面白くない。それならもっと楽しいことをヤル」となるようです。
今は「昔ながらのやり方」で若い人に伝えることが難しくなっていると思います。
家伝だからこそ、伝承としてはこれからも守れるかも知れません。実際今日の舞台にも1977年生まれの後継者達が上がって居りました。
ただ表現の受け手のレベルは確実に落ちているように思います。
テレビは人に深い想像力を求めません。予定された反応を期待されたレベルでする大衆だけを消費社会は必要とするのですから。
そして人は受け身に慣れ過ぎて、内面から湧き上がってくる本来なら共感しうる感情を対話で共感に築きあげていく能力は低下してるようです。
抽象的表現は判りにくいと避けられるか、勝手な曲解を留める方途を持てないままに個々に消費されてしまうか。いずれにしても現代で「ウケる」ことは難しそうです。
家訓が「守って滅びよ」だそうです。
媚びて本質を失うよりは孤高に滅びよということでしょうか。
難しいとは思いますが、「今の若いモンは・・」というセリフは大昔から変わらず言われ続けています。おそらく時代は巡り巡るように思います。頑張って欲しいという気がしました。
そして、もしかして客の感想として一番肝心なのかも知れませんが、今日の狂言、芝居としてとても面白かったです。
この文章は、本を読んだ上で実際に表現を見、解説して頂いた上での思索です。

狂言のすすめ
自分としてはとても有意義な経験でした。